スクリフォソフスキーはいかにして現代外科手術の祖となったか?
彼の名は後半を省略した「スクリフ」という固有名詞として使われることが多い。人名としてではなく、彼の名を冠したモスクワの救急医療センターの名称としてもっぱら使われる。
センターの専門は非常事態時の医療。その死後20余年を経て設立されたが、ニコライ・スクリフォソフスキー自身はこのセンターに直接関わってはいない。しかし、ヨーロッパの4つの戦争で磨かれた彼のメソッドは確かで、救急医療への貢献は絶大だ。
卒倒から戦争まで
1836年4月6日、ヘルソン県の貧しい貴族の家庭に12人兄弟の9番目として生まれた。幼い頃に母親を亡くすと、父親はニコライを弟妹たちとともにオデッサの養育院に預けた。1855年、モスクワ大学医学部に進学する。
彼を指導したのは、著名な外科医フョードル・イノゼムツェフだった。伝記作家によると、ニコライは初の手術実習で血を見て卒倒してしまったというが、2度目からは慣れたらしい。もう一度卒倒したのは、解剖劇場にて。過労のあまり、遺体のすぐ横に倒れこんだという。
戦場での外科処置
スクリフォソフスキーは19世紀後半の「全ての戦争の医師」であった。プロイセン=オーストリア戦争(1866-1868)、普仏戦争(1870-1871)、セルビア・オスマン戦争(1876)、露土戦争 (1877-1878)の4つの戦争を経験している。この過酷な経験が、彼に現代まで続く治療メソッドを確立させるに至った。
まず第一に、負傷者がいち早く良質な治療を受けられるよう、極力迅速に野戦病院に後送されるよう強く要請した。
第二に、即時切断するのが主流だった当時、スクリフォソフスキーは患部を残す治療を推進した。ロシアで初めて骨や関節に切除術(損傷個所のみを切除する)を広く適用し、四肢を残すべく努めた。新しい長骨の接合術を編み出し、この手術は「ロシアの錠」もしくは「スクリフォソフスキーの錠」と呼ばれた。この接合術は骨折した骨を強固に結合可能にするもので、改良されて現在も用いられている。
衛生革命
19世紀当時、手術後の敗血症と壊疽による死亡率は極めて高かった。スクリフォソフスキーはロシアで他に先駆けてその原因を認識し、感染症対策にまい進した。彼はジョゼフ・リスターが提唱した消毒法の宣伝にも注力した。リスターの消毒法は化学品(カルボン酸など)を使って傷口のバクテリアを殺菌する画期的なものだった。
スクリフォソフスキーの手法は、化学品による消毒にとどまらなかった。彼は物理的な消毒による無菌操作の先駆けの1人である。スタッフに清潔な白衣の着用、手の洗浄と消毒を要求し、医療器具や医療衣の熱消毒(煮沸消毒、蒸気消毒)を導入した。
同時代人は、「あんな大男が、目に見えないほど小さなバクテリアを怖がっている」と揶揄したが、しかしスクリフォソフスキーの一貫した熱意のおかげで、ロシアの医院では死亡率が劇的に減少したのである。
外科手術の新たな一歩
19世紀末、腹腔内手術や胸腔内手術はまだ始まったばかりだった。スクリフォソフスキーはロシアにおけるこうした手術のパイオニアでもある。開腹による胃の手術を成功させた先駆者の1人であり、食道がんの治療にもあたった。
甲状腺腫の切除術、脳瘤の治療、胆のうや膀胱の疾患の治療方法も開発した。麻酔の導入も積極的に推し進め(クロロフォルムとエーテル)、局所麻酔の先駆けの1人となった。
医学研究と教育
モスクワ大学の医学部長を務めていたこともあり(1880~1893)、スクリフォソフスキーは病院街ともいうべきものの設立を立案した。資金を集めて、バラバラだった医院を一大複合体にまとめたのである。
1893年から1900年にかけては、ペテルブルクのエレナ・パヴロヴナ大公妃記念帝室医療大学(現サンクトペテルブルク卒後医学教育アカデミー)の学長を務めた。スクリフォソフスキーが学長職にあった時期に同大はレントゲン室を含む最新の設備を備えるようになり、医療従事者の技量向上を担う先進的な施設となった。また、女性の高等医学教育を推奨したことでも知られる。露土戦争に際しては女医グループを率い、彼女らは男性医師らと肩を並べて病院で治療にあたった。
スクリフォソフスキーは世界的な外科医であり、外科手術に関する膨大な量の論文を残し、その多くは現代でも通用するレベルのものである。ロンドン医学協会、プラハのチェコ医師会、パリ外科医協会、ブダペスト外科医協会のそれぞれ名誉会員でもあった。多くの人命を救ったのみならず、外科手術をシステム化して精密科学の域に押し上げた。
また、研究者によると、1884年にモスクワ大学医学部を卒業したアントン・チェーホフに医師免許を授与したのは、ほかならぬスクリフォソフスキー教授であったという。もっともチェーホフは3年後には医学界を去って、創作に専念することになる。