ロシアの文豪たちの三角関係
イワン・ツルゲーネフ、ポーリーヌとルイ・ヴィアルド
「私は他人の巣の端に暮らしている」と、ツルゲーネフは自らについて語っている。この19世紀の大作家はその作品で数多くの家族模様を描写してきたが、自分の家庭はついに築けなかった。その一因は、彼の両親の複雑な関係にあったのかもしれない(母親は父親より年長かつ裕福で、父親は浮気がちだった)。あるいは、歌手のポーリーヌ・ヴィアルドに惚れ込み、その愛慕が生涯にわたって続いたせいかもしれない。
ツルゲーネフとポーリーヌは、お互い20歳を少し過ぎた頃に出会った。しかも、2人を引き合わせたのはポーリーヌの夫ルイであった。ポーリーヌの風貌はなかなかに独特というべきで、多くの人には不器量に映った。しかしその驚くべき美声は、彼女を一気に魅力的にした。一方のツルゲーネフは2m近い大男で、「ロシアの熊」とあだ名された。
その後の40年、ツルゲーネフは極力ヴィアルド夫妻と近くに居ようとした。近所に住み、頻繁に会い、ポーリーヌの公演に足を運び、ロシアの農民の娘に産ませた娘の教育をポーリーヌに任せ、アクセサリーを贈り、ヴィアルド家無しでは生きられなかった。こうした関係はツルゲーネフの死まで続いた。彼はポーリーヌの腕に抱かれながら息を引き取った。
ニコライ・ネクラーソフ、アヴドーチヤとイワン・パナーエフ
「農村の詩人」として知られるニコライ・ネクラーソフは、経験豊富で有能な実業家でもあったが、情熱的な色男の一面もあった。その恋愛履歴については多くの噂があり、中でも最もスキャンダラスだったのが、パナーエフ夫妻との3人婚である。アヴドーチヤは別のロシア人作家・評論家のイワン・パナーエフの妻だったが、若きネクラーソフは諦めなかった。彼は長い間アヴドーチヤに言い寄り続けた。
当初は拒絶していた彼女だったが、ついに根負けする。興味深いことに、ネクラーソフを夫に紹介したのは他ならぬアヴドーチヤであり、2人の男は親友となった。イワン・パナーエフ自身が、ネクラーソフに同居を提案した。こうした関係は16年続き、2人の男児が生まれたが、いずれも夭折している。イワン・パナーエフの死後、ネクラーソフとアヴドーチヤは別れている。
ニコライ・チェルヌイシェフスキーとオリガ夫人、そしてイワン・フョードロヴィチなる人物
19世紀ロシアの文豪、発禁処分となった『何をなすべきか?』の著者ニコライ・チェルヌイシェフスキーは、一部の同時代人たちと同様、旧来の婚姻制度は時代遅れで、抜本的改革の必要に迫られていると考えていた。結婚前から、彼は
「私が思うに、女性は家庭において不当な地位に貶められている。あらゆる不平等に憤りを覚える。女性は男性と対等であるべきだ。しかし、長い間ある方向に曲げられた棒を真っ直ぐにするには、反対方向に長時間曲げなければならない」
と書いている。
当初、チェルヌイシェフスキー自身は友人のワシーリー・ロボドフスキー夫妻の「3人目」だった。ロボドフスキーは貧しい駅長の娘と結婚し、チェルヌイシェフスキーは新婚夫婦の生活のあらゆる面に関与し、金銭的援助を行い、見張りをした。しかし駅長の娘は語学の勉強とゴーゴリを読むことを拒否したため、2人は彼女の「啓蒙」に望みを失ってしまった。
そこで、チェルヌイシェフスキー自らが結婚を決意した。彼が伴侶に選んだのはサラトフの医師の娘オリガ・ソクラトヴナ・ワシリエワだった。情熱的な気質と男性関係によって彼女の風評は危機に晒されていたが、チェルヌイシェフスキーは彼女を両親の束縛と様々な風説から「救った」ことになる。
流刑先から妻宛の手紙の中で、彼は健康に気を付けるように、また、性的禁欲は女性にとって禁忌であるとして、衛生状態にも気を配るよう、再三書いている。オリガ夫人はこの助言に従い、イワン・フョードロヴィチなる愛人をもうけた。
アレクサンドル・ゲルツェン、ナタリーとゲオルグ・ヘルヴェーク
『誰の罪か?』を著した作家アレクサンドル・ゲルツェンはオープン・マリッジの挙句に家族関係を極限まで複雑にした。最初の愛の三角関係の頂点となったのはゲルツェン、妻のナタリー、そしてドイツのロマン派詩人ゲオルグ・ヘルヴェークだった。彼らはジュネーヴに住み、ヘルヴェークはゲルツェンの息子に科学を教え、ナタリーはヘルヴェークにロシア語を教え、ヘルヴェークの妻エマは2人の子供とともにパリで暮らしていた。ルソーとジョルジュ・サンドの思想に共鳴したナタリーは2つの家族を、レマン湖あたりで1つ屋根の下で同居させたいと願っていた。実際、一時期はそれが実現したが、ヘルヴェークはエマにナタリーとの関係を話してしまい、そのためにゲルツェンはヘルヴェークを追い出した。エマはナタリーをヘルヴェークに同行させてくれるようゲルツェンに懇願した。失意のヘルヴェークは自殺さえほのめかし、事態は決闘寸前まで悪化した。妊娠していたナタリーはこうした心労の挙句に体調を崩し、1851年5月に死去、赤ん坊も助からなかった。
アレクサンドル・ゲルツェン、ニコライ・オガリョフとナタリー(別人)
しかしゲルツェンはこの「3人婚」を、6年後にも繰り返すことになる。今度は、友人にして義兄弟のニコライ・オガリョフの妻ナタリー・トゥチコワ=オガリョワ(ゲルツェンの亡き妻の友人でもある)に惚れてしまった。オガリョフは寛大にも身を引く用意さえあったが、結局ゲルツェンは別の女性、保護と「救済」を必要としていたメアリー・サザーランドと出会って平安を得た。
リーリャとオシップ・ブリーク、ウラジーミル・マヤコフスキー
ロシア文学史上最も有名なポリアモリー家族である。リーリャと未来派詩人ウラジーミル・マヤコフスキーが出会ったのは1915年。当時、リーリャはすでに文学評論家オシップ・ブリークと結婚していたが、2人の間に愛情が芽生え、出会いから3年後、リーリャはマヤコフスキーに同居を提案した。3人の同居生活は困難かつ波乱に満ちていた。詩人のアンドレイ・ヴォズネセンスキーは、リーリャが彼らの性生活を赤裸々に語り、マヤコフスキーがいかに情熱的かつ衝動的で、また極度に嫉妬深かったかを強調していたと後年回想している。
マヤコフスキーはこの3人婚に全身全霊を傾けた。愛し、苦しみ、皆の生活の面倒を見た。リーリャには自動車まで買ってやったが、リーリャの運転は雑で、子供をはねてしまったこともあった。10年後、リーリャとオシップは別れ、さらに5年後にはマヤコフスキーが自殺してしまう。リーリャは長生きし、老いてからは波乱万丈の若き日々を好んで回想していた。
イワン・ブーニン、ヴェーラ・ムロムツェワとガリーナ・クズネツォワ
作家イワン・ブーニンはある時、妻ヴェーラを愛しているかと訊かれ、こう答えた:
「ヴェーラを愛する?どういうことです?それは自分の手や足を愛する、というのと同義だ…」
こんな調子であるから、30歳年下のガリーナ・クズネツォワに惚れた時、彼女をヴェーラと暮らす家に同居させたのも不思議ではない。もっとも、当初はガリーナを秘書兼門下生として紹介していたが、ほどなくしてその関係性は秘密では無くなった。
1933年、彼らは3人揃ってブーニンのノーベル文学賞受賞のためストックホルムを訪れた。帰路、ガリーナはオペラ歌手のマルゴと知り合い、彼女のもとに去った。ヴェーラは1953年に夫が死去するまで添い遂げた。