
1812年9月7日 露仏両軍が激突し「ボロジノの戦い」が行われた

ボロジノの平原における激闘には、露仏両軍合わせて25万人以上が参加した。血みどろの戦いは、朝から晩まで続き、何度も取ったり取られたりする陣地もあった。
ロシア軍の守りの要であった大角面堡塁(ラエーフスキー堡塁)をめぐる攻防戦について、フランス軍のウージェーヌ・ラボン大尉は、日記でこう振り返っている。「死体は折り重なり、その中には多くの負傷者もいたが、叫び声や呻き声は聞こえなかった。あらゆる種類の武器が、地面に散乱していた…。堡塁を守っていた敵兵は、降伏するよりも死ぬことを選んだ…」
ナポレオンは、最精鋭部隊である予備の古参近衛軍を、戦闘に投入しなかった。夕闇が迫る中、ロシア軍は、整然たる隊形を崩さずに撤退した。疲弊したフランス軍には、追撃する力も意欲もなく、戦闘を終えたばかりの場所で、就寝した。
両軍は、合わせて8万人以上の兵士が戦死、負傷、捕虜、行方不明となり、その中には、将官75名も含まれていた。こうしてボロジノの戦いは、一日の戦いとしては、19世紀を通じて最も凄惨な戦闘となった。
フランス軍は、戦術的には勝利し、モスクワを占領することになるが、戦略的には敗北を喫した。祖国から遠く離れた地で、取り返しのつかぬ甚大な損失を被ったのに対し、ロシア軍は、ナポレオンがもくろんだように壊滅するどころか、戦闘能力を保っており、十分な補給を受けられる態勢にあった。
「戦場を我々が支配したからといって、それが何の役に立とうか?これほど広大な国なら、ロシア人には戦うだけの十分な土地が他にもあるではないか?」。ナポレオンの幕僚(副官)だったフィリップ・ポール・ド・セギュールは、回想録でこう嘆いている。
ナポレオンの「大陸軍」は、ロシア軍と総司令官クトゥーゾフを追って、モスクワへ向かった。しかし結局、不名誉な、文字通りの壊滅に至ることとなる。