ロシアではこれまで何度、世界の終末「アポカリプス」が待たれたか?
古代・中世ロシアでは、ピョートル1世(1672~1725年)の改革に至るまで、「キリスト生誕紀元」ではなく、ビザンツ式の「天地創造紀元」が用いられていた。この二つの紀年法の差は5508年である。そして、世界の終末が近いという多くの計算は、まさにこの、より古い紀年法に基づいていた。
11世紀
ヨーロッパでは、キリスト生誕から1000年に世界の終わりが来ると予言されていたが、古代ロシアは、この不安をほとんど経験しなかった。というのも、ロシアがキリスト教を受容したのはその少し前、988年のことであり、まだキリスト教暦を十分に自らのものとしてはいなかったからだ。
最初の「終末論的恐怖」が、少数のロシアの学者や知識人を襲ったのは、1033年、そして1037〜1038年だった。前者は、キリストの死と復活から1000年後にあたる年である。後者は次のように計算された。いくつかの解釈によれば、1033年に反キリスト(アンチキリスト)が現れ、3年半にわたって支配するとされた。したがって、世界の終わりそのものは1037年ごろに予想されたわけだ。
また、天文学的・神学的な説明も見いだされた。すなわち、受胎告知の大祭(生神女福音祭)(3月25日)が復活祭と一致すると、最後の審判の日が到来する、という信仰があった。1038年には、受胎告知祭は復活祭の直前にあたる聖土曜日に重なった。これは、予言にほとんど正確に合致するものと受け取られた。
不安の第二の波は、その世紀の末に訪れた。学者たちを怯えさせたのは、第七千年紀の第七百年、すなわち天地創造紀元6600〜6604年、キリスト生誕紀元1092〜1096年であった。ロシアの主要な年代記『過ぎし年月の物語』(原初年代記)は、この数年間について不安を暗示する記述に満ちている。そもそもその書名自体がそれを示している。「過ぎし年月」とは「終わりの時」、すなわち再臨前の時を意味するからだ。
1492年――ロシアにおける最大のアポカリプス
キリスト生誕紀元1492年は、天地創造紀元7000年に当たっていた。この年には、ロシアの歴史上でもっとも強く、大規模な世界終末待望の波が押し寄せた。
神学には、六日間で創造された世界(これは六千年を象徴する)は、キリストの再臨までちょうど七千年存続し、その後に「第八の時代」すなわち永遠が始まる、という考え方があった。したがって、第七千年の終わりは、絶対的な境界として受け止められたのである。
こうした期待はきわめて深刻なものであったため、教会は1493年の復活祭暦を作成しなかった。そもそもそれに意味を認めなかったからだ。農民たちは畑への種まきをやめ、その結果、実現しなかったアポカリプスの後には現実の飢饉が生じた。
イワン3世の母、マリヤ・ヤロスラヴナ公妃は、1477年にキリロ・ベロゼルスキー修道院へ495ルーブルという巨額を寄進したが、その条件は、修道士たちが1492年までちょうどの期間、公の家族のために祈りを捧げることだった。
1666年――正教会分裂と「獣の数字」
次の大いなる恐怖は、キリスト生誕紀元1666年に起こった。この数字は、『ヨハネの黙示録』に現れる「獣の数字」666と直接結び付けられていた。
これに拍車をかけたのが、その少し前に行われた総主教ニコンの教会改革であり、これによってロシア教会は古儀式派(分離派)と新儀式派に分裂した。古儀式派にとって、この改革は単なる儀礼の変更ではなく、真の正教の崩壊であり、反キリストの支配の到来を意味した。ニコンその人も、多くの人々には悪魔的なものとして受け止められた。
その結果、まさに悲劇的な事態が生じた。人々は魂の救いを求めて森へ逃れ、「ガーリ」(集団焼身)を行い、火によって自らを清め、悪魔のしもべたちに服従しないようにしようとした。別の者たちは棺に横たわり、大天使のラッパを待った。しかし、このときもアポカリプスは到来しなかった。
こうして、社会の終末待望は次第に変化し、より個人化された方向へ向かい始めた。すなわち、世界全体の終わりを待つのではなく、自らの死と、全能者の前での個人的な応答に備えるべきだ、という考えが現れるようになった。