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ロシア皇帝パーヴェル1世はどのように殺害されたのか

Print Collector/Getty Images
1801年のこの日、ロシア皇帝パーヴェル1世が宮殿内で殺害された。この陰謀には数百人が関与していたとされ、宮廷関係者や近衛将校に加え、サンクトペテルブルク総督も含まれていた。

 皇帝は、貴族の自由と特権を制限し、体罰を導入したことで強い反発を招いていた。軽微な違反でも領地の没収や流刑に処されることがあり、貴族層の不満は高まっていた。

 外交政策も批判の対象となった。パーヴェルは長年の同盟国イギリスとの関係を断ち、ナポレオンと連携して英領インドへの遠征を構想していた。このため、イギリスが陰謀に関与、あるいは事前に把握していた可能性も指摘されている。

 1801年3月24日未明、陰謀者たちはサンクトペテルブルクのミハイロフスキー城に侵入した。皇帝の居室を警護していた兵士は制圧され、警告は発せられなかった。

 パーヴェルは寝間着姿で発見された。陰謀者たちは、息子アレクサンドルへの譲位を求めた。その後の経緯については記録が分かれており、拒否したとする説と、要求を受け入れたとする説がある。

 いずれにせよ、陰謀者たちは皇帝の生存を許さなかった。ウラジーミル・ヤシュヴィリ公は「今は何でも署名するだろうが、明日には我々の首が処刑台にかかる」と発言したと伝えられる。

 体格に優れていたパーヴェルは抵抗したが、床に押し倒され、踏みつけられたうえ、剣の柄で頭部を打たれ、最終的に共謀者のスカーフで絞殺された。

 しかし、公式には死因は「脳卒中(アポプレクシー)」と発表された。

 その後、皇位にはアレクサンドル1世が就いた。彼は父によって流刑にされていた貴族を赦免し、イギリスとの同盟関係を回復した。

 アレクサンドルは陰謀の存在を認識していたとされるが、皇帝殺害までは想定していなかったと考えられている。友人のアダム・チャルトリスキは「彼はやがてクーデターの首謀者たちを遠ざけた。それは危険視したためではなく、彼らを見ること自体に嫌悪を覚えたためである」と記している。