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ロシア人が釣りを愛する5つの理由

mihtiander / Getty Images
水域を探索し、天候を見極め、魚の習性を研究し、適切な道具と餌を選び、期待と緊張に手に汗握り、さて成功か失敗か… これらすべてが、ロシア人(そしてそれ以外の国)の作家たちとその多くの読者たちが、何世紀にもわたって釣りを愛してきた理由だ。

自然の美しさ 

mihtiander / Getty Images

 「甘いギシギシ(*タデ科の植物)の匂いにむせ返るようだった。プルモナリア(肺草)の香りも強烈で、リャザンの広大な地に降り注ぐ陽光は、まるで液体の蜂蜜のようだ。私たちは、草の発する温かな空気を吸い込み、周囲では、マルハナバチがブンブンと羽音を立て、キリギリスがギィーギィー鳴いていた。樹齢百年超の柳の葉が、鈍色の銀のように、頭上でざわめいた。プロルヴァ湖は、睡蓮の香りと清冽な水を漂わせていた」。作家コンスタンチン・パウストフスキー(1892~1968年)は、短編『黄金のテンチ(*コイ科の魚)』のなかで、こう描いている。

 彼は自然を愛し、それを微細に描き出しただけでなく、釣りにも熱中しており、多くの作品にそのことが記されている。たとえパウストフスキーのように、見たものを描写する才能がなくても、新しい場所を探し、釣りをしながらその景観に見惚れ、美しい写真を撮ることを妨げるものは何もないだろう。

 瞑想   

Andrey Mitrofanov / Getty Images

 「誰でも、川や湖でせめて一日でも釣り竿を手に過ごし、花の香りを心ゆくまで吸い込み、鳥のさえずりや鶴の鳴き声を聴き、暗い水中に大きな魚の青銅色や銀色に輝く姿を見て、そして細い釣り糸に、その魚の躍動する走りを感じることができれば、その日は、生涯で最も幸せな日の一つとして、長く記憶されるだろう」。パウストフスキーは同著のなかで続けている。

 実際、釣りというものは、単に釣り場を選び、魚の習性を研究し、適切な餌を準備できる技であるだけではなく、いわば瞑想でもある。つまり喧騒から離れる機会だ。例えば、熱心な釣り人だった劇作家アレクサンドル・オストロフスキー(1823~1886年)は、釣りをしながら、戯曲の筋書きを考案し、登場人物の性格を練り上げ、それをしっかり記録するために、専用のノートに書き留めた。

 無我夢中

ドミトリー・フェオクトシストフ / TASS

 作家アントン・チェーホフはこう自認した。「食事なんかくれなくてもいい、ただ釣り竿を手に座らせておいてほしい…。ああ、なんて楽しいんだ!カワメンタイ(*タラ目の淡水魚)やチャブ(*コイ科の淡水魚)を釣ると、まるで自分の兄弟に会ったみたいだ。そして、魚にはそれぞれ独特の知恵がある。だから、生き餌で釣れるものもあれば、ミミズで釣れるものもあり、カエルやキリギリスで釣れるものもある。ちゃんとこのことが分かっていなければならない!」

 こんな描写を含む作品はたくさんある。釣り人は、魚の食いつきに気づき、竿をグッと引いたものの、魚は逃げてしまう。あるいは、ほとんど釣り上げて、魚を捕まえようとするが、魚の尾びれの一振りで、糸が切れ、針もろとも逃げられる、などなど。ところで、釣り人の自慢話は、狩人のそれと何ら変わりはない。そして、彼らは獲物を誇らしげに量る。

釣果   

kisstochka15 / Getty Images

 「午前中ずっと釣りをしていた。川を横切って昨晩仕掛けた網を確かめた。針には何もなかった。餌はぜんぶパーチに食われてしまったようだ。しかし、そのとき、糸がピンと張り、水を切り裂き、深みに、生きた銀色の輝きが現れた。それは、針に引きずられてくる平たいブリーム(*コイ科の淡水魚)だった。その後ろには、太くて頑強なヨーロピアンパーチが一匹見え、その先には、鋭い黄色い目をした小さなカマスがいる。引き上げられた魚は、まるで氷のように冷たい…」。釣りの魅力をパウストフスキーほど表現できる人は稀だ。

 エミール・ゾラだけが、『パリの胃袋』のなかで、街の市場の魚屋を自然主義風に見事に描写している。川魚は骨が多く、泥臭く、調理が簡単ではないかもしれないが、海魚よりも甘みがあり、手軽に自分で釣ることができる。

仲間とのピクニック   

Oleg_0 / Getty Images

 このスタイルは、一人で黙然と釣りに没頭するのではなく、男同士でワイワイガヤガヤ仲良く過ごし、自然の懐で愉快な連中に囲まれつつ大いに飲む、というもの。ロシアの釣り人はしばしばこっちを選ぶ。これは、人気映画『国民的釣魚の特色』(1998年)の題材にもなっている。