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レオニード・ガイダイ:ソ連中を笑わせた映画監督
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「人々は本当に厳しい生活を強いられている。だから笑いを届けたい」―これはレオニード・ガイダイの言葉である。『犬のバルボスと奇妙な逃走』、『酒の密造者」、『作戦コード<ウィ>とシューリクのその他の冒険』、『カフカスの女虜』、『ダイアモンド・アーム』、『イワン・ワシリエヴィチ、転職する』、『十二の椅子』、『そんなはずはない!』などの彼のコメディはソ連のヒット作品となり、数百万人の観客を惹きつけた。作中の多くのフレーズが金言となり、映画音楽は不滅の名曲となった。ガイダイ監督の作品はソ連や現代ロシアだけの人気にとどまらず、世界中の人々を笑わせ続けている。一体その秘密は何なのだろうか?
チャーリー・チャプリン、戦争、そして映画
レオニード・ガイダイは1923年、極東に生まれた。父親は流刑され、アムール鉄道の建設に携わった。後に家族はイルクーツクに移り住む。コメディへの関心は子どもの頃から抱いていた。
ガイダイが特に崇拝していたのはチャーリー・チャプリンである。ガイダイは地元の映画館で、チャプリンの映画をすべて観た(ときに、入れ替えの際に客席の間に身を隠し、繰り返し観たこともあったという)。後に、自身の作品の中―たとえば、オー・ヘンリーの短編小説を基にした早期の作品『赤い酋長の身代金』など―にはチャプリンの影響が見てとれる。セリフは少なく、ほとんど無声映画と言えるもので、すべての笑いの要素は、滑稽な状況や音で表現されている。
学校を卒業したばかりのまだ若いガイダイは、自ら前線で戦うことを希望した。ガイダイはすぐには軍に受け入れられなかったが、1941年についに招集された。ガイダイは諜報員としての任務を遂行したが、戦闘にも参加し、ドイツ軍の発砲地点に手榴弾を投げたりした。しかし1943年、地雷の爆破により、踵に重傷を負い、除隊されることとなった。そこで、ガイダイはイルクーツクに戻り、演劇スタジオで学んだ後、モスクワに行き、全ロシア映画大学の監督学部に入学した。そして卒業後すぐに「モスフィルム」に就職することとなった。
人を笑わせる職業
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ガイダイが目指したのはコメディというたった一つのジャンルだった。ただ一度だけ、キャリアをスタートさせてまもない頃、「モスフィルム」のイワン・プィリエフ社長の指示を受けて、革命をテーマにした映画『Трижды воскресший(三度の復活)』を制作した。しかし、この作品は酷評され、キャリアを失いかねないほどであった。
最初のヒット作となったのは、『犬のバルボスと奇妙な逃走』(1961)である。作品はカンヌ映画祭にノミネートされた。このコメディには三人の泥棒、ゲオルギー・ヴィツィン演じるトルース(臆病者)、ユーリー・ニクーリン演じるバルベス(のらくら者)、そしてエヴゲーニー・モルグノフ演じるブィヴァールィ(海千山千)が初めて登場する。この三人組は観客の間で大人気を博し、その後のガイダイの作品に何度も登場することになる。
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ソ連全土で栄光を獲得したのが、ソ連の興行収入第一位となった『作戦コード<ウィ>とシューリクのその他の冒険』(1965)である。この映画の主人公である、素朴で正直者で几帳面な学生のシューリクはまさに国民的アイドルとなった。前代未聞の大成功を受けて、映画の続編となる『カフカスの女虜、あるいはシューリクの新たな冒険』(1967)が制作され、こちらも驚異的な成功を収めた。
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作中の多くのユーモアは明確な不条理を基礎としたコメディ的手法で作られている。そして俳優たちのジェスチャーと顔の表情で面白みがさらに増幅する。
誤ってダイアモンドを腕のギプスに嵌め込まれてしまう正直で家庭的なセミョーン・ゴルブンコフを主人公にしたコメディ『ダイアモンド・アーム』(1969)はソ連映画史の興行成績上位3位に入る作品となっている。
ちなみにシューリク(もっとも、すでに学生ではなく、タイムマシーンを発明した研究者となっている)は、ミハイル・ブルガーコフの戯曲を下敷きにしたもう一つのカルト映画『イワン・ワシリエヴィチ、転職する』(1973)にも登場する。
ガイダイ監督は概して、古典作品に目を向けることが多く、オー・ヘンリー、イリヤ・イリフ、エヴゲーニー・ペトロフ(『12の椅子』)、ミハイル・ゾーシチェンコ(『そんなはずはない!』)などの作品を映画化している。
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最後の作品『デリバソフスカヤは晴天、あるいはブライトン・ビーチはまた雨』は、ソ連邦解体後に撮影されたが、その中で監督は大胆に、ソ連指導者やKGBを嘲笑している。
ガイダイ夫人で女優のインナ・グレベシコワは、「若いときのガイダイは映画の主人公のシューリクによく似ていた」と話す。ガイダイはニーナと同じ大学で学んだが(監督は戦後、入学したため、年齢は上だった)、目立つ存在で、細くて、背が高かったという。しかし、彼女への愛情表現は控えめで、モスクワ中を歩いて家まで見送り、花を買った。ガイダイとグレベシコワは1953年に学生結婚し、グレベシコワの両親と同じ部屋で暮らし、他人の目から逃れられる場所は大きなタンスの陰だけだった。
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監督は、普段は気取らない人柄で、禁欲的でさえあった。すべての時間を仕事に捧げ(家にいる時間よりも撮影やモスフィルムのスタジオで過ごす時間の方が長かった)、見栄えに気をつかうことを必要とはしなかった。数億人の観客が彼のコメディを見たが、彼自身は小さなアパートに暮らし、焼けてしまったダーチャを建て直すための貯金もなかった。
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妻のグレベシコワを有名にしたのもガイダイ監督である。『カフカスの女虜』の精神病院の医師役、『ダイアモンド・アーム』の主人公の妻役は、彼女をスターに押し上げた。
コメディアンや道化師というのは、私生活では静かで、時には陰気な人物だったりすることがある。しかしガイダイに関してはこれは当てはまらなかった。同時代人たちは、彼はいつも機知に富み、抜群のユーモアセンスを持ち、冗談ばかり言い、アネクドート(小噺)を披露し、楽しむことが好きだったと回想している。
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ガイダイ監督は多くの人々が気づかない面白さを発見し、それを人々に示してみせた。優れたコメディ俳優たちを相手に、自ら、どのように演じるべきか指導することもあったという。
ガイダイ・コメディの人気の秘密
ソ連時代が描かれているものの、作品はあらゆる国のあらゆる年齢層の人々にとって、分かりやすく面白いものである。女優のナタリヤ・ワルレイは、アフリカの試写会で黒人女性が大変気に入って、自分の子どもを上に投げ上げて、大笑いしていたことを覚えている。
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この人気の秘訣は、推敲を重ねた脚本、キャストや音楽の的確、絶妙な選択にある。コメディ『作戦コード<ウィ>』、『カフカスの女虜』、『ダイアモンド・アーム』の主要な脚本家、ヤコフ・コスチュコフスキーは、ガイダイ監督とともにセリフを考えたことを回想し、二人には、独自の「方式」があったと話す。二人はいつも、たとえば、ヨシカル・オラのようなところに住む高齢の女性にも、そのセリフや作品が理解されるか、面白いかということを考えて作っていたのである。
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俳優のユーリー・ニクーリンは、ガイダイ監督は一つ一つのシーンをとても細かく作り上げていたと回想している。彼はテープを惜しむことなく、何度でも撮り直した。さらに、ガイダイ監督にとっては、撮影クルーやスタッフが笑ってくれることがより重要だったという。「(現場の人たちが笑うということは)何かあるということだ」とガイダイ監督は言った。つまり、作り手にとって面白いものであれば、他の人にとっても面白いという意味である。
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