GW2RU
GW2RU

ロシアの伝統的なイズバーを詳しく解説(写真特集)

イワン・クリコフ、『農民の家の中』(部分)、1902年
プスコフ博物館保護区
ロシアの伝統家屋の形態は地方毎の特徴がある。地域の気候や伝統によって外観は異なったが、内部の設計や装飾、調度品などには共通点も多い。

イズバーの外観

ミハイル・エラッシ、『ロシアの村』(部分)、1840年代
トレチャコフ美術館

 ロシアの伝統的な家屋イズバーは、昔から木造オンリーである。職人は丸太を重ねてイズバーを建てた。

 「丸太の先端から20㎝ほどに、チャーシャ(カップ)と呼ばれる半円筒形の窪みが彫られ、その窪みにもう1つの丸太が直角にはまるようになっていた」

 と、民俗学者のエヴゲニヤ・ブロムクヴィストは描写している。

 それぞれ角は、ヴェネツと呼ばれる丸太の縦列を形成する。保温のため、丸太の間にはコケや麻屑が詰め込まれた。鉄釘をはじめとして、鉄の部品は用いない。

ソフィヤ・プロスヴィルキナ、『ヤロスラヴリ県ダニロフ地区クジミンスカヤ村の家の眺め』(部分)、1926年
ロシア国立歴史博物館

 研究者によると、最も古い屋根のタイプは、寄棟のテント型だったようだ。後に、切妻型の屋根も広まり、屋根の下は窓付きの広い屋根裏部屋として利用された。

 屋根の棟の先端は動物の像で装飾するのが一般的で、最も多かったのは、馬頭型の装飾である。歴史学者ドミトリー・ゼレーニンはこうした伝統が、「生贄として捧げられた動物の頭骨の記憶」から発生したと仮定している。

ボリス・クストーディエフ、『小屋、コストロマ県』(部分)、1909〜1917年
ロシア美術館

 屋根は通常、薄い屋根板か、小さな板を重ねて葺いたもの。金属製の屋根は比較的少なく、茅葺きの屋根は稀であった。北方では、骨組みに木片を重ねて層状にした、うろこ屋根を思わせる屋根形状が一般的だった。一方南部では、藁葺きが多かった。

 イズバーの外装は木彫りで装飾され、時代を経て色とりどりの壁画に置き換わった。こうしたオーナメントは幾何学模様が最も多いが、それ以外のモチーフもあった:

 ロシア人は幾何学模様のほか、草花模様、そして、ライオンに似たもの、オットセイに似たもの、魚の尾を持つ人のようなもの(ファラオンキ)、馬頭のものといった空想上の動物なども描く。北方のロシア人は一般的に、屋根の両側の傾斜に沿っている家屋正面の板を木彫りで装飾する

 と、ゼレーニンは書いている。

 イズバーは庭に囲まれていた。富農や中流の村民の場合は庭に馬小屋、家畜小屋、干草置き場、穀物庫や食糧庫があり、道具類の他、軒下にはソリや荷車を置いた。ロシア北方の地方では、イズバーと庭は屋根でつながっており、増築も施された屋根付きの空間となっていた。ロシア南部ではそれぞれの建物が離れて建てられ、編み垣で囲まれていた。

伝統的なイズバーの設計

 イズバーの設計は地域によって異なるが、主な要因は気候だ。例えば、ロシア南部のイズバーは地面の上に直接、建てられた。土の床には藁や干し草を敷き、時には板敷きにすることもあった。一方、北部では骨組みは何層も重なり、下部の層は非居住区域で、通常は糧食などが保管された。地下階や半地下階、あるいは浅い地下空間という場合があった。

ピョートル・スホドリスキー、『村で』(部分)、1882年
トムスク地方美術館

 一般に天井は低く、中央にはマチツァと呼ばれる水平な主梁があった。マチツァは天井の丸太もしくは板などの部材を支える役割があるが、家屋の神聖な場所ともされていた。マチツァには魔除けのシンボルや、亡くなった親族の名前を彫り込み、また赤ん坊の揺り籠を吊るした。そしてマチツァは、屋内空間を仮の「内」と「外」にも二分していた。客人は入り口近くの長椅子に座り、主人の招きが無い限り、屋内の反対側の半分には立ち入らなかった。

グリゴリー・ソロカ、(ワシリエフ)『納屋』(部分)、1843年
ロシア美術館

 北部のイズバーの場合、窓は2階にあり、1階は家事や作業スペースで、窓が無かった。窓ガラスの代わりとなっていたのは雲母の板か、もしくは、牛の内臓と、油脂をしみ込ませた紙を窓枠にはめ込んだ。寒い時期には、藁を詰めた袋とヨロイ戸で塞いだ。冷気が屋内に入りにくいよう、ドアも天井同様に低かった。イズバーには閂が無いことが多かったが、客人は窓を叩いて主人に来訪を伝えるのがマナーだった。

内部の設計

 最も多いパターンは、居住スペースとして暖房されたイズバーと、寒いままの前室「セニ」の2つで構成されていたもの。セニは一種の玄関として機能し、暖房されているスペースと寒い外部を隔てる配置となっていた。ここに食料や道具類、水桶などを置き、料理を冷まし、履物や上着を置いた。夏は住人がセニで寝起きし、冬に寒さから守る必要がある時は、若い家畜や家禽がセニで過ごした。

ユーリー・クガチ『台所で』(部分)、1953年
トレチャコフ美術館

 暖房されたスペースは住人が調理、食事、寝起きなどをするための空間で、休息の場所でもあった。20~25平方メートルが平均的な広さで、そこに7~10人程度の住人が暮らした。空間は男女別に分かれていた。一部のイズバーでは、清潔なスペースを仕切りが隔てていた。このスペースはゴルニツァと呼ばれ、客をもてなし、テーブルを囲む空間であった。

 暖炉付近には地下室に降りる階段への入り口が設けられた。地下室では牛乳や、ジャガイモ、ニンジンなどの野菜、キャベツの漬物などを保管した。

家具、装飾、照明など

アレクセイ・ハルラモフ、『姉妹のゆりかごのそばで』(部分)、19世紀
パブリックドメイン

 イズバーの家具は、据え置き型のものと、ポータブルタイプのものとに分けられる。壁に沿って置かれる長椅子、食器棚、床から高めに作られた寝床の「ポラーチ」などは、丸太に固定された。持ち運べる家具としては、テーブル、ベンチ、長持などがあった。椅子はあまり見られない。

 大きな暖炉は隅に設置される。北部では入り口のそば、南部ではその逆。長さは2メートルほどにもなり、上部は平らな寝床となっていて、老人や子供が寝る場所だった。

 暖炉の対角線上の隅は「赤い隅」、すなわち「美しい隅」とされた。家の中でもっとも明るく清潔で、よく装飾された一角である。家の内部が仕切りで区切られている場合、「赤い隅」はゴルニツァにあった。「赤い隅」の棚にはイコンが並べられ、ランプが置かれた。他人の家に入った時は、「赤い隅」に向かって十字を切る風習があった。この場所には長テーブルも置かれ、家族が食事を共にした。

ワシリー・マクシモフ、『イズバの赤い隅』(部分)、1869年
ロシア美術館

 照明には、白樺やヤマナラシの木片を細長く切った木っ端材が使われた。これを松明台に1本もしくは数本をまとめて差す。この松明台は1メートルほどの支柱の先にフォーク状の鉄の部品があり、この部分に木切れを差し込む。燃えかすは、松明台の下に置かれた水入りの容器に落ちる。この灯りは弱弱しいものだったので、家事は極力、日のあるうちに済ませるよう人々は努めた。ロウソクは高価で、農民は祝祭日以外では滅多に使わなかった。ロシアでは19世紀中盤からケロシンランプが普及し、電化の時代まで家屋の照明に使われた。

 家屋を飾ろうとするのは、今も昔も同じである。木製品には幾何学模様や草花模様の木彫りを施し、床には織物の敷物を敷いた。イコンにはルシニクと呼ばれる白地に刺繍を施したタオルをかけた。暖炉も、全体に鮮やかな模様を描くことがあった。17世紀のロシアではルボーク作りも始まる。ルボークとは、宗教や民話に題材をとった版画の一種である。こうしたルボークも、壁にかけて飾られるようになる。

 この記事のロシア語のフルバージョンは、Culture.ruに掲載中。