エカチェリーナ2世はロシア語をいかに学んだか
未来のロシア帝国女帝は、神聖ローマ帝国領邦君主アンハルト=ツェルプスト侯クリスティアン・アウグストの娘として生まれ、ゾフィー・アウグステ・フリーデリケと名づけられた。だから、彼女はドイツ人の公女であり、幼い頃からドイツ語とフランス語を知っていた。ロシアの皇位継承者、後の皇帝ピョートル3世(1728~1762年)と婚約した彼女は、異国での将来の生活を真剣に考えていた。そして、14歳で初めてロシアにやって来たときには、すでにロシア語を少し話せた。
彼女は熱心に学んだ
「エカチェリーナ2世の生涯と文学的活動に関する研究は、女帝が、ロシア人ではないにもかかわらず、積極的に独習し、ロシア語とロシア文化の特質を学んでいたことを示している」。言語学者アリョーナ・ニキーチナは、ロシア語ポータルサイト「Gramota.ru」に、このように記している。彼女は、この女帝の言語学的特性を専門的に研究している。
ロシアに着くとすぐに、皇太子妃にはロシア語の家庭教師がついた。ロシア語の最初の文法書の一つを著したワシリー・アダドゥロフだ。
「ロシア語に早く上達するために、私は夜ベッドから起き上がり、皆が寝ている間にアダドゥロフが残してくれたノートを暗記した」。エカチェリーナ2世は回想録にこう書いている。
時の女帝エリザヴェータ・ペトローヴナも、ロシア語の学習を助けた。エカチェリーナは次のように回想している。「陛下は私にロシア語で話しかけ、ロシア語で返事をするように言われた。私はそうした。すると陛下は私の発音の良さを褒めてくださった」
エカチェリーナ2世はロシアの作家でもあった
エカチェリーナは、ロシア語で回想録を書き、手紙(グリゴリー・ポチョムキンその他の政治家との書簡)と文学作品(おとぎ話、詩、戯曲)を残した。
彼女は、ロシア語を流暢に話しただけでなく(当時の人々の回想によれば、ドイツ訛りではあったものの)、古代教会スラヴ語、年代記、民間伝承も研究していた。彼女は、会話でも文章でも、口語表現だけでなく、古い単語と表現も巧みに使いこなした。こうして彼女は、民衆にとってできるだけ親しみやすく、理解されやすい存在でありたいと願っていた。
同時に、彼女は創造的なアプローチを用い、慣習を打ち破り、言葉遊びを巧みに用いた(例えば、彼女の寵臣ポチョムキンに宛てた手紙の中で、彼女は冗談めかして「唇にキスをして罰してやる」と脅した)。
政治の要素としての言語
エカチェリーナは、文学は歴史や政治と密接に結びついており、帝国の愛国教育には独自の道が不可欠であると考えていた。
彼女は、ロシア語は外国語の圧倒的影響(当時、宮廷では多くの人がフランス語とドイツ語を話していた)と、理解し難い古い構文の両方から「浄化」される必要があると思っていた。
女帝は、ロシア語の発展にも大きく貢献した。1783年に彼女は、ロシア・アカデミーとして知られる、学者と作家が自発的に活動する団体を設立した。科学アカデミーが精密科学に特化していたのに対し、このアカデミーはロシア語を研究し、一連の規則をまとめた。彼女の治世で、最初のロシア語辞典の一つが出版され、文字「Ё」が一般用法として導入された。