
ペテルブルクのシンボル・巡洋艦アヴローラの、意外と知らない史実

1.イギリスと戦争になりかける

日露戦争のさなかの1904年10月、アヴローラは第二太平洋艦隊に所属してバルチック海から極東に向けて航行。その道中、イギリス諸島付近でロシア艦隊は濃霧の中、イギリスの漁船群を日本の水雷艇と誤認し、砲撃してしまった。
さらに、友軍の砲弾はアヴローラにも命中。従軍司祭が重傷を負い、ほどなく死亡した。
この「ドッガーバンク事件」はイギリス世論に火をつけ、英国メディアはロシア艦隊を「海賊」、「狂人艦隊」と書き立てた。両帝国の外交努力によって、辛うじて戦争は回避された。
2.ロシア海軍の壊滅を生き延びる

極東に到達した第二太平洋艦隊だったが、一難去ってまた一難。艦隊は1905年5月末、対馬沖の日本海海戦で壊滅した。
敵による撃破、自沈処分、投降したものも合わせ、喪失は合計28隻。7隻はマニラと上海に脱出して抑留された。
これら抑留された艦の1つが、ひどく損傷したアヴローラだった。同年の終戦直後、10月にロシアに帰還している。
3.メッシーナの住民を救援

1908年、地震で大きな被害を被ったイタリアのシチリア島メッシーナ市の救援に、数隻のロシア艦が出動した。アヴローラはこの活動には参加しなかったが、2年後、活躍した水兵を表彰する金メダルを受領するべく、メッシーナを訪れている。
入港したその夜、市内で火災が発生。消防隊の到着まで、アヴローラの水兵達が消火活動に当たった。救援のお礼として、数千個のオレンジとレモンが贈られた。
4.革命のシンボルとなる

アヴローラは1917年の革命で主役級の働きをした。11月7日、アヴローラが放った空砲は、臨時政府のいる冬宮襲撃の合図となった。
当時ペトログラード(サンクトペテルブルク)にいたアメリカ人ジャーナリストのジョン・リードは、アヴローラが放ったのは実弾だったと回想している:「宮殿はアヴローラが放った2発の砲弾を浴び、コーニスから剥がれた漆喰が歩道に散乱していた。砲撃による、それ以外の被害は無かった」。
ソ連時代、巡洋艦アヴローラは革命の最も重要なシンボルの1つだった。
5.ペテルブルクのシンボルの1つに

1948年、アヴローラはナヒーモフ海軍学校の向かい、ペトログラツカヤ河岸に永遠に係留されることになった。1956年までは練習艦として利用され、1960年に記念艦となった。
現在、アヴローラは水上博物館であり、かつ、サンクトペテルブルクの最もよく知られるシンボルの1つとなっている。伝説級のこの巡洋艦は、ペテルブルク・ツアーで誰もが必ず見学するスポットだ。