皇帝も詩人も訪れた店、「クラスヌイ・カバチョク」を知る6項目

ロシア・ナビ(写真:chatgptによって作成、パブリックドメイン)
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200年もの間に、この居酒屋は様々な客を迎え入れてきた。アレクサンドル1世とニコライ1世も訪れ、アレクサンドル・プーシキンやミハイル・レールモントフも訪れた。オーナーの中には、ナポレオン戦争にも従軍した女性軽騎兵もいた。

1.ピョートル1世のおかげで開業

パブリックドメイン
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 18世紀初頭、ペテルブルクからストリェリナやペテルゴフへの道中にピョートルの休憩所が作られた。1706年にピョートルはこれを自分の通訳官に下賜し、さらに7年後、飲食と宿泊ができる施設とすることを許可し、酒・タバコの提供も許された。名称はすぐに、近くを流れるクラスネニカヤという小川にちなんで決まった。

2.クーデター直前にエカテリーナ2世が宿泊

クスコヴォ博物館
クスコヴォ博物館

 「着替えもせず床に入った」と、クラスヌイ・カバチョクで過ごした夜をエカテリーナ・ダーシュコワ公爵夫人は回想している。彼女は1762年夏、夫ピョートル3世に廃位を告げるためにペテルゴフに向かうエカテリーナ2世に随伴していた。クーデター・グループはクラスヌイ・カバチョクで休憩のため一泊している。ダーシュコワの回想によると、あてがわれた部屋は狭くて汚かったが、あまりに疲れていたので同意したという。しかし、結局眠れなかった。エカテリーナはダーシュコワに自らのマニフェストを読み上げ、今後とるべき行動について話し合っていた。

 他にこの店を訪れた君主には、アレクサンドル1世とニコライ1世もいる。

3.オーナーには女性もいた

パブリックドメイン
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 1817~1852年にここを訪れた客は、「プロイセン銃兵の軍服に身を包み短剣を肩にかけた」若者の肖像画を目にした。店のホールで、老いてなおこの肖像画の主に生き写しの人物を見た客はさぞ驚いたことだろう。なにしろ、スカートを穿いていたのだから。彼女こそが店のオーナー、ルイーザ・ケッセニヒだったのだ。実際に彼女は1813~1815年、性別を隠してケーニヒスベルク第2軽騎兵後備連隊に入隊した。彼女はパリに到達するまで従軍し、鉄十字章も授与されている。

 動機は、愛だった。彼女の最初の夫は1809年、ナポレオンと戦うためにロシアの軽騎兵連隊に入隊した。ルイーザは戦場で彼を探し当てるべく、同じく軽騎兵となった。そしてついに2人はパリの路上で出会う。しかし翌日、夫は戦死してしまった。1816年に彼女は退役してロシアに移住し、そこで余生を過ごした。

4.プーシキンが喧嘩した場所

パブリックドメイン
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 クラスヌイ・カバチョクは、金持ちの若者の間でも人気だった。騒々しいパーティーが催され、博打打ちや喧嘩好きが集まった。また、ロマのコーラスが初めて公演したのもこの店だったとされている。

 ファデイ・ブルガーリンの回想によると、「若手将校たちは、狩りに行くように」通い、そのどんちゃん騒ぎはしばしば喧嘩に発展した。

 「まずは屈強な女達にぶっ倒れるまでワルツを踊らせ、その後は男達を酔わせ、最後は有名なドイツの歌Freu’t euch des Lebensを合唱し、特にPflücke die Roseの部分を強調して歌う。その後は女の尻を追い回し、これがたいていは喧嘩に発展した」という。

 朝になって皆兵舎に戻るが、数日後には彼らに対する苦情が寄せられ、騒ぎを起こした将校たちは営倉入りとなる。

 ここで喧嘩した人物の中には、詩人のプーシキンもいた。彼は友人のパヴェル・ナショーキンと一緒にやってきては、地元の常連ドイツ人客たちとボクシングのテクニックを使って喧嘩した。

5.名物はワッフル

 クラスヌイ・カバチョクは、高級料理を出す店ではない。仔牛肉や塩漬肉といったメニューの他、飲み物ではポンチ酒やグリューワインがあった。マースレニツァの時期には、ブリヌイを求める人々が列をなした。また多くの人が、クリームとジャムを添えたワッフルを食べにこの店を訪れた。

6.レールモントフが詩を捧げた

パブリックドメイン
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 「そこに居酒屋がある…昔から変わらぬその名はクラスヌイ・カバチョク」と、ミハイル・レールモントフは詩『モンゴ』で店に言及している。プーシキンもまた、作中でこの店に触れている。

 だが、クラスヌイ・カバチョクの人気にも陰りが見え始め、賑やかな宴会も次第に過去のものとなっていった。19世紀末頃の常連は、郊外の労働者階級となっていた。そして1919年、ついに店は解体された。