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ソ連は世界における共産主義の勝利のために何をしたのか?

イ・V・シマコフ『革命5周年および第4回コミンテルン大会に捧げるポスター』1922年
パブリックドメイン
革命後、ロシアでは内戦が激しく続き、ボリシェヴィキ政権はまさに風前の灯だった。それにもかかわらず、あらゆる力が国外で「世界革命の火」を燃え上がらせることに注ぎ込まれていた。

 「ヨーロッパの蜂起した諸民族が帝国主義を打ち砕かなければ、今度は我々が打ち砕かれることになる。それは疑いない。ロシア革命が西欧に闘争の渦を巻き起こすか、さもなければ、すべての国の資本家が我々の革命を絞め殺すか、そのどちらかだ」。レフ・トロツキーは1917年、そう主張していた。

ヨーロッパの「火」

 ボリシェヴィキは、国内で権力を掌握すると、ほとんどすぐに「世界革命の火」をあおり始めた。状況は好都合だった。第一次世界大戦は深刻な危機を引き起こし、いくつかの帝国が崩壊するとともに、不動に見えた秩序も揺らぎ始めた。さらにロシアでの出来事に刺激を受けた労働運動が各地で勢いを増していた。

画家ゲンナジー・モーシンとミハイル・ブルシロフスキーによる絵画「十八年」の複製
E・コガン / Sputnik

 1919年、ウラジーミル・レーニンの主導で共産主義インターナショナル(コミンテルン)が設立され、各国の共産党を統合した。ソビエト・ロシアから潤沢な資金援助を受けたこの組織は、合法的手段と非合法的手段の両方を用いて、世界における共産主義の勝利を目指して活動した。

ウラジーミル・イリイチ・レーニン、第1回コミンテルン大会の議長団にて、クレムリン
ナッペルバウム / Sputnik

 ロシアでは内戦が激しく続いていたが、ボリシェヴィキは欧州で起きていることを注意深く見守っていた。1919年にハンガリー、スロヴァキア、バイエルンでソビエト共和国が誕生すると、彼らはそれを「世界的なプロレタリア共産主義革命の時代」の始まりだと宣言した。しかし、ボリシェヴィキ政権は、これらの政権に実質的な支援を与えることができず、いずれもわずか数か月で打倒された。

1918年のソビエトのプロパガンダポスター(画家A・ゼレンスキー、A・ブロークの詩『十二』からの言葉)
パブリックドメイン

 欧州内部から「世界革命」を始めることに失敗すると、ボリシェヴィキ政権は、今度は外部からそれを持ち込もうとした。具体的には、1919〜1921年のポーランド・ソビエト戦争を通じてだ。当時、軍司令官ミハイル・トゥハチェフスキーはあからさまにこう述べている。

 「白いポーランドの屍を越えて、世界的な火災への道が開ける。われわれは銃剣の先に、労働する人類の幸福を運ぶのだ! 西へ!」

ポスター(1919年):「疑うな!1919年5月〜6月の遠征の結果としての赤軍の成功」
パブリックドメイン

 しかし、ワルシャワ近郊での敗北によって、この計画は頓挫した。

アジアの「火」

 アジアでは、ボリシェヴィキ政権は、社会主義運動そのものよりも、民族主義、反植民地主義、反西欧の運動に期待をかけていた。自国が多くの問題を抱えていたにもかかわらず、トルコのムスタファ・ケマル・アタテュルク政権や、中国の蒋介石率いる国民党に対して大きな支援を行った。

1948年5月20日。蒋介石が中華民国総統に就任
パブリックドメイン

 1919年には、インドへの軍事遠征という構想も浮上した。トロツキーは次のように主張していた。

 「世界政治のアジアの舞台において、わが赤軍は、ヨーロッパの舞台におけるよりもはるかに大きな力だ。現時点では、インドへの道のほうが、ソビエト・ハンガリーへの道よりも短いかもしれない」

レフ・ダヴィドヴィチ・トロツキー(1879–1940)、政治家・国家活動家、ロシア社会主義連邦ソビエト共和国革命軍事評議会議長、1920年
Sputnik

 しかし、秋に白軍の攻勢が始まったため、この構想は放棄された。

 「仏教・共産主義革命」をチベットで起こそうとする試みも失敗に終わった。一方で、ボリシェヴィキ政権はモンゴルのソビエト化には成功し、それを自らの勢力圏にしっかり組み込んだ。モンゴル人民共和国は、ソ連体制が崩壊するまで忠実な同盟国であり続けた。

路線の修正

 1920年代半ばになると、ソ連指導部は、国外で「革命の火」を燃え上がらせることはできないと理解するようになった。党は「一国における社会主義」の建設へと方針を転換し、資本主義諸国との関係構築にも乗り出した。

 対外政策においてソ連は、イデオロギーよりも現実的な判断を優先することが多くなった。たとえば、1929年のアフガニスタン内戦では、蜂起した民衆ではなく、自国に友好的だったアフガニスタン国王アマーヌッラー・ハーンを支援した。

 1936年の憲法では、「全世界の勤労者を世界社会主義ソビエト共和国へと統合する」という文言はすでに消えていた。さらに1943年、ヨシフ・スターリンはついにコミンテルンを解散した。彼は以前から、この組織を「我々の金で食っている居候の集まり」だと呼んでいた。

 それでも、地政学的状況がそれを許すなら、共産主義を広げる可能性をソ連が完全に放棄したことはなかった。第二次世界大戦後には、東欧に社会主義体制が築かれ、その後、ソ連とアメリカはアジアとアフリカの再分割をめぐって争うことになった。

 ソ連は、世界各地の反植民地主義運動や革命運動を積極的に支援した。友好国には資金援助や軍事技術援助が提供され、ソ連の外交官たちは、国連で一貫してそれらの国々の利益を擁護した。しかし、社会主義体制の多くはソ連の支援だけによってかろうじて維持されていたにすぎず、ソ連が崩壊すると、それらもまた急速に崩れ去った。