激動の16世紀ロシアを有名画家たちの絵で見る

この世紀のロシア史における重要な出来事を、画家たちがどのように描いたかを見てみよう。リトアニア大公国との軍事衝突から、イワン4世(雷帝)の治世の終わりまでだ。

1.作者不詳「1514年9月8日、オルシャの戦い」(1520~1534年)

ワルシャワ国立美術館
ワルシャワ国立美術館

 16世紀前半を通じて、ロシアとリトアニア大公国は、互いに激しい戦争を繰り広げた。争奪の対象となったのは、モンゴルの侵攻後、リトアニアの支配者たちの権力下に入った、ロシア西方の諸公国の領土だった。

 モスクワは西方へ大きく進出し、リトアニア大公国の一連の土地、とりわけ戦略的に重要なスモレンスクを服属させることに成功した。相次ぐ敗北は、リトアニアにポーランドとの接近を模索させ、その結果、1569年には連合国家「ポーランド・リトアニア共和国」が成立することになった。 

2.ピョートル・シャムシン「イワン4世のカザン入城」(1894年)

V. V. ヴェレシュチャギン・ミコライウ美術館
V. V. ヴェレシュチャギン・ミコライウ美術館

 15世紀半ばに、モンゴル帝国の後継国家の一つであるジョチ・ウルス(キプチャク=ハン国)が崩壊した後、ロシアは、その残存勢力と向き合わざるをえなくなった。モスクワに最も近かったのはカザン・ハン国であり、これとの軍事的・外交的対立はおよそ100年続いた。1552年、イワン4世(雷帝)はカザンを服属させることに成功し、そのわずか4年後にはアストラハン・ハン国を併合した。

3.パーヴェル・ソコロフ=スカリャ「イワン雷帝によるリヴォニアの要塞コケンハウゼンの攻略」(1937~1943年)

ロシア美術館
ロシア美術館

 1558年、イワン雷帝は、リヴォニア連盟に対する戦争を開始した。この連盟は、リヴォニア(現在のラトビア東北部からエストニア南部にかけての地域)におけるドイツ騎士団のラントマイスター管区と、いくつかの司教領から成っていた。開戦の口実となったのは、連盟側がいわゆる「ユーリエフ貢税」を支払わなかったことである。ロシア軍は、現在のラトビアとエストニアにあたる広大な領土を占領し、レーヴェリ(現在のタリン)にまで達した。1561年、リヴォニア連盟は崩壊した。

4.カール・ブリュロフ「1581年、ポーランド王ステファン・バートリによるプスコフ包囲」(1843年)

トレチャコフ美術館
トレチャコフ美術館

 やがて、ロシアの強大化を恐れた近隣諸国が、次第にリヴォニア戦争へと巻き込まれていった。紛争の最終段階で、イワン雷帝は、スウェーデンとポーランド=リトアニア連合国家に同時に対抗せざるをえなくなった。その結果、リヴォニアで獲得したすべての征服地は失われ、ポーランド軍は戦闘をロシア領内へ移し、プスコフを包囲した。ただし、結局これを攻略することはできなかった。一方スウェーデンは、和平交渉の結果、フィンランド湾南岸の一部を手に入れた。

5.ニコライ・ネヴレフ「オプリーチニキ」(1890年代)

ガパル・アイティエフ国立美術館
ガパル・アイティエフ国立美術館

 1565年、イワン4世は、大貴族と聖職者が自分の権力を制限しようとする試みにうんざりして、国家を二つの部分、すなわち「オプリーチニナ」(古ロシア語の「オプリチ」――「外に」「外側に」「別に」に由来する)と「ゼムシチナ」に分割した。最も豊かな領土を含む前者は、君主の私的な分領となり、そこで彼は、まさに絶対的な統治を行った。後者の頂点には貴族会議が置かれたが、最も重要な問題の決定権は、ツァーリが自分の手に残した。

 オプリーチニキ、すなわちツァーリの親衛隊は、彼が裏切りの疑いをかけた、あるいは気に入らない大貴族や聖職者たちを粛清した。その犠牲者の一人となったのが、大貴族イワン・フョードロフ=チェリャードニンである。1568年9月11日、彼は、一説によると、ツァーリの衣装を着せられ、玉座に座らされた。ツァーリは彼に一礼し、その後、短剣で刺し殺したという――。この説を描いたのが画家ニコライ・ネヴレフだ。

6.アレクサンドル・ノヴォスコリツェフ「府主教フィリップの最期」(1889年)

ロシア美術館
ロシア美術館

 オプリーチニナのもう一人の犠牲者となったのが、モスクワおよび全ルーシの府主教フィリップ2世である。彼はイワン雷帝の政策を厳しく批判していた。この聖職者は聖職位を剝奪され、トヴェーリのオトロチ修道院へ流刑にされた。そこで1569年12月23日、彼はオプリーチニクのマリュータ・スクラートフによって殺害された。

 分割された国家の弱さを鮮明に示したのが、1571年の出来事である。この年、クリミア・ハンのデヴレト・ギレイがモスクワにまで突破し、これを焼き払った。翌年、ゼムシチナ軍とオプリーチニナ軍を統合した軍勢が、モロディの戦いでハンを撃破したにもかかわらず、ツァーリはオプリーチニナを廃止した。

7.アレクサンドル・リトフチェンコ「イワン雷帝、英国大使ホーシーに財宝を見せる」(1875年)

ロシア美術館
ロシア美術館

 1553年、白海沿岸にイギリス船が現れた。船長リチャード・チャンセラーはモスクワにたどり着き、そこでイワン4世に謁見し、両国間の関係樹立について合意した。3年後、英国人には、ロシアのすべての都市で無関税貿易を行い、首都に自らの貿易会社の居館を開設する権利が与えられた。その後長年にわたり、英国はロシアの主要な経済パートナーとなった。

8.ワシリー・スリコフ「エルマークによるシベリア征服」(1895年)

ロシア美術館
ロシア美術館

 1581年、コサックのアタマンであるエルマークは、大規模なコサック軍を率いて、モンゴル帝国の残存勢力の一つであるシビル・ハン国に対する遠征に出た。この軍事作戦に資金を提供したのは、富裕な商人ストロガノフ家であり、彼らのウラルの所領はタタール人から定期的に襲撃を受けていた。この作戦はコサックたちにとって大いに成功したため、まもなく彼らの後を追って、ツァーリの軍司令官たちに率いられた多数の軍事部隊がシベリアへ向かうようになった。

9.イリヤ・レーピン「1581年11月16日のイワン雷帝とその息子イワン」(1883~1885年)

トレチャコフ美術館
トレチャコフ美術館

 1581年11月19日、イワン雷帝の息子であり、ロシアの帝位継承者であった皇子イワン・イワノヴィチが27歳で亡くなった。その死因は最後まで明らかになっていない。最も広く知られた説によれば、彼は父と口論になり、ツァーリが怒りにまかせて杖で致命傷を負わせたという。

10.ミハイル・ネステロフ「殺された皇子ドミトリー」(1899年)

ロシア美術館
ロシア美術館

 10年後、イワン4世のもう一人の息子が亡くなったが、その死の状況もまた謎に包まれている。8歳のドミトリーは、中庭で小刀を使って遊んでいたときにてんかんの発作を起こし、自らを切って死んだとされる。しかし、“遅鈍な”ツァーリ、フョードル・イワノヴィチ(雷帝の三男)のもとで国の全権を自らの手に集中させ、王座への道を切り開いていた貴族ボリス・ゴドゥノフの命令で殺されたという説もある。

 1606年に列聖されたドミトリーの死、そして1598年に子のないフョードルが亡くなったことによって、リューリク朝は断絶した。ロシアで「大動乱」時代が始まった。それは、深刻な政治的・経済的危機、反乱、外国の干渉、そして支配者の絶え間ない交替によって特徴づけられる時代だった。この時代の特徴の一つとなったのが、「奇跡的に救われた」「正統な」ツァーリ、ドミトリーを名乗るさまざまな僭称者たちの出現である。