
プーシキンの詩をロシア語で読むべき5つの理由

アレクサンドル・プーシキン(1799~1837年)の翻訳は、詩人の生前から始まっている。最初のフランス語訳は、1823年になされた。その後、プロスペル・メリメとイワン・ツルゲーネフが、ルイ・ヴィアルドー、さらにアレクサンドル・デュマ・ペールをはじめとする有名作家たちと協力し、プーシキンの詩と散文を、ヴォルテールやルソーの言語に翻訳した。一方、プーシキンの最初の英語訳は、19世紀半ばに遡る。
今日では、彼の作品は、世界の主要言語すべてで読むことができ、英語だけでも約40の翻訳がある。韻文小説『エフゲニー・オネーギン』を原作としたオペラ(チャイコフスキー作曲)が上演されているだけでなく、レイフ・ファインズとリヴ・タイラー主演の米英合作映画『オネーギンの恋文』(1999年)も製作された。フランス人作家クレメンティーヌ・ボヴェイの小説『本当にあれはタチアナ?』(原題:Songe a la douceur)は、プーシキンの『エフゲニー・オネーギン』に基づいており、フランスのティーンエイジャーの間に、原作への興味を呼び起こしている。
にもかかわらず、プーシキンは依然として最も翻訳困難な、そしてその結果過小評価されているロシア人作家の一人とみなされている。
「私は、よくこう言われる――プーシキンは翻訳不可能だと。でも彼は、既に自分の(普遍的な)言語に、語られざることも、容易に語り得ないことも、移し表現している。だから、その言語が翻訳不可能などということがあるだろうか?しかし、こういう詩人の翻訳は、やはり詩人が行うべきだろう」。ロシアのもう一人の傑出した詩人マリーナ・ツヴェターエワは、こう問題提起した。なぜ、こんな問題が生じているのか?
1. 言語

ある言語から別の言語へ文学作品を精確に訳そうとすると、多くの要因に左右される。その主なものは、言語自体、その構造、そして言語が従う文法規則だ。ロシア語は、「合成言語」あるいは「屈折言語」である。語尾に重要な役割があり、文中の語順は多かれ少なかれ自由だ。そのため、作者は、文法構造をかなり自由に操ることができる。
例えば、英語は「分析言語」であり、語順が文の意味を決定し、語尾の果たす役割ははるかに控えめだ。言語という手段がこれほど根本的に異なるため、同じ考えを表現することは可能であっても、その表現形式はほぼ必然的に異なるものとなる。
プーシキンの詩の外国語への翻訳のなかには、散文になっているものもあるが、こうした言語の違いがその理由の一つだ。散文に訳すことで、翻訳者たちは、敢えて適切な詩の形式を探そうなどと企てていないことを明示している。そうすることで、彼らは、「意味」に完全に集中することができるというわけだ。ロシア語から中国語への翻訳者でさえ、だから翻訳はお手上げなどとは考えず、プーシキンの詩や散文を読者のために出版している。
2. 詩(韻文)

「詩の翻訳は不可能だ。(成功した翻訳は)常に例外だ」と、詩人・作家で、シェイクスピアのロシア語翻訳者でもあるサムイル・マルシャークは記している。ここで、今度はイギリスの詩人、サミュエル・コールリッジの言葉を引用しよう。「詩とは、最良の言葉が最良の秩序で表現されたものである」。つまり、詩の翻訳者は、三重に複雑な課題に直面するのだ。
まず、他の詩人が表現した考えを伝えるのに最も正確な言葉を選ぶ。次に、それらを適切な詩の韻律、つまり「最適な順序」に配置する。最後に、言語によって、詩のジャンル、韻律、形式の評価や「意味的負荷」が異なる場合がある。
例えば、ヨーロッパの詩における頌歌、哀歌、あるいは「ソネットの輪」といったジャンルは類似しており、古代に遡るが、より判別しにくく曖昧な形式になると、翻訳者の知力と詩的感覚の柔軟さを必要とする。多くの翻訳者がこの困難な課題への挑戦を諦め、詩の散文訳という道を選ぶ、もう一つの理由はこれだ。
3. 現実
料理、飲み物、日用品、民族特有の現象や概念の名前も、詩で翻訳するのは難しい。「しかし、ズボン、燕尾服、チョッキ…//これらの言葉はすべてロシア語には存在しない」。プーシキンは、『エフゲニー・オネーギン』の「詩的逸脱」のなかで、読者に断っている。
19世紀初頭の詩人だけがこのような問題を抱えていたわけではない。プーシキンの現代英語への翻訳で有名なユリアン・レーヴェンフェルドは、ロシア訪問中にロシアの聴衆に対し、苦労話をした。「брусничная вода ブルスニーチナヤ・ヴォダー」のような飲み物を訳すのは一苦労だと(*ブルスニーチナヤ・ヴォダー。直訳すると「コケモモ水」で、コケモモを水に浸して作る飲み物だが、保存が悪いと容易に酸化したり発酵したりし、飲むと腹をこわしたり、下痢したりする。『エフゲニー・オネーギン』には、これに関するユーモラスな箇所がある)。この飲み物は、しばしばブルーベリーモルスやシロップと誤訳される。
「старушка スタルーシカ〈老婆〉」も訳しにくいという。レーヴェンフェルドはまた、「анчар アンチャール」を「毒の木」と訳したのは、必要な単語がバイロンにしか見つからず、それがマレーシア語源だったためだと言った。

作家ウラジーミル・ナボコフは、「тоска トスカー」という単語に完全に一致するものを見つけられなかった。彼の観点からすると、悲しみ、悲嘆、憂鬱といった言葉は適切ではない。また、「老いた猿にふさわしい」という箇所の翻訳では、大方が予想する「猿」ではなく、かなり珍しい「sapajou」(*英語とフランス語で「カツラザル」または「オマキザル」を意味する)という単語を使用し、プロの翻訳者たちの批判を浴びた。
4. スタイル
これまで述べた点が、あらゆる言語で書かれた詩人の翻訳に当てはまるとすれば、これは、プーシキン自身に限った事柄だ。彼のスタイル(様式)は、実にユニークな特性をもっており、彼の詩だけでなく散文でさえ、他の言語への翻訳は、他の作者におけるよりも困難で、翻訳に際して失われるものがより大きい。詩人自身も、自分の散文を「速い」と呼んでいた。
この「速い」スタイルの好例としてよく挙げられるのが、歴史小説『大尉の娘』の次の箇所だ。
「細かい雪が降り始めた――そして突然、綿雪がどんどん降ってきた。風が吹き荒れ、猛吹雪となった。一瞬にして、暗い空は雪の海と溶け合った。すべてが消え去った。」
«Пошел мелкий снег – и вдруг повалил хлопьями. Ветер завыл; сделалась метель. В одно мгновение темное небо смешалось со снежным морем. Все исчезло».
ここには、形容詞はほとんどなく、名詞と動詞が多く使われている。それにより、速いテンポが生み出される。

プーシキンの翻訳を研究する者たちは、中編小説『スペードの女王』の伯爵夫人の描写に注目している。プーシキンは次のように描いている。
彼女は、「舞踏会というと、わけもなくやって来て(таскалась)、隅の方に席を占め、ルージュを塗りたくり、時代遅れの服を着て、まるで舞踏室の不格好だが必要な装飾のようだった」。「таскаться」(やたらとうろつく、用もないのにやってくる)という言葉は、かなり強烈な意味合いの動詞であり、登場人物の性格やライフスタイルについて多くのことを語る。そのまま翻訳するのは困難だ。
プーシキンは、詩の表現方法においても、同様にダイナミックかつ簡潔であり、それはスタイルの選択における精密さと、しばしばコントラストとによって実現されている。例えば、彼は、古風な言い回しと日常的でロマンチックなそれとを組み合わせる。
5. 巨匠の技
詩が、単なる翻訳者ではなく、他の詩人によって訳された場合、より良い結果が出ると考えられている。ロシア語への翻訳の例は、これを十分に裏付けている。
ドイツ・ロマン派の作品の、詩人ワシリー・ジュコフスキーによる翻訳、シェイクスピアの翻訳(サミュエル・マルシャークとボリス・パステルナークによる)、後者によるゲーテの『ファウスト』の翻訳、ミハイル・ロジンスキーによる『神曲』の翻訳…。これらは、世界文学の至宝であるばかりでなく、優れた翻訳のおかげで、ロシア文学の傑作にもなった。

プーシキンの翻訳者のリストを見ると、彼は幸運だったと言えるかもしれない。ナボコフは15年近くかけて(韻文ではなく、リズミカルな散文ではあったが)『エフゲニー・オネーギン』を翻訳し、長文の解説を執筆した。マリーナ・ツヴェターエワも、詩の一部をフランス語に翻訳した。しかし、彼らでさえも、完全に透徹した訳は実現できなかった。
しかし…結果としてプーシキンがそれぞれの文化によって違って響くというのは、そんなに悪いことなのだろうか?