なぜヨシフ・スターリンはロシアの作家たちに電話をかけたのか
1930年春、ヨシフ・スターリンは、ミハイル・ブルガーコフ(1891~1940年)に電話をかけた。そして1934年5月には、ボリス・パステルナークに電話した。どちらの会話も数分しか続かなかったが、さまざまな伝説を生み、2人の文学者の人生において重要な出来事の一つとなった。
ブルガーコフへの電話
ミハイル・ブルガーコフ
1930年春までに、ミハイル・ブルガーコフの置かれた状況は、破局的なものになっていた。彼の戯曲は上演レパートリーから外され、散文作品は掲載されず、新聞・雑誌では激しい攻撃にさらされていた。作家は生計の手段を失っていた。
3月28日、ブルガーコフはヨシフ・スターリンとソ連政府に率直な手紙を書いた。その中で彼は自らの破滅が近いことを予感していると述べ、自分を国外へ出すか、それがだめならモスクワ芸術座で自分の専門の仕事――常勤の演出家――就く機会を与えてほしいと求めた。
のちに作家自身が語ったところによれば、4月18日の夕方6時から7時ごろ、ボリシャヤ・ピロゴフスカヤ通りの自宅で電話が鳴った。受話器を取ったのは妻で、中央委員会からの電話だと告げられた。ブルガーコフは誰かの悪ふざけだと思い、不機嫌なまま電話口に出た。
「あなたの手紙は受け取った。同僚たちと読んだ。あなたには、それに対して良い返事があるだろう…。それとも本当に、外国へ行きたいのかね。われわれはそんなに君をうんざりさせているのかね」とスターリンは聞いた。
ヨシフ・スターリン
「このところずっと考えていました。ロシアの作家は祖国の外で生きられるのだろうか、と。私には、生きられないように思われます」とブルガーコフは答えた。
ただし、この会話の正確な記録(速記録など)は存在しない。このやりとりは、ブルガーコフの三番目の妻エレーナによる。
そして翌日、ブルガーコフはモスクワ芸術座の演出助手に採用された。
パステルナークへの電話
ボリス・パステルナーク(1890~1960年)への電話のきっかけになったのは、1934年5月16日から17日にかけての夜の、詩人オシップ・マンデリシュタームの逮捕だった。その理由は、有名な警句詩「われらは国を足の下に感じることなく生きている」であり、そこには「ゴキブリのような巨大な口ひげ」を生やした「クレムリンの山男」についての一節があった。モスクワでは逮捕の噂が広まった。パステルナークは政治局員ニコライ・ブハーリンに働きかけ、ブハーリンはスターリンに、「パステルナークもまた気にかけている」と書いたメモを送った。
ボリス・パステルナーク
多くの資料によって裏づけられているスターリンとブルガーコフの会話とは異なり、ソ連指導者とパステルナークの会話には多くの食い違いがある。研究者ベネディクト・サルノフは、この会話について少なくとも12のヴァージョンがあると数えている。しかも、パステルナーク自身が相手によって違う形で語っていたと考えるだけの根拠もある。
比較的有力なヴァージョンの一つは、通訳者ニコライ・ヴィリモントによるものだ。彼は電話のかかってきたその瞬間、パステルナークの家にいて、最初に受話器を取った人物だった。彼の回想によれば、スターリンはマンデリシュタームについて尋ねた。パステルナークは、マンデリシュタームがスターリンを詠んだ詩のために逮捕されたことを知っていたので、きわめて慎重にふるまい、話題をそらそうとした。
「ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ、何か別のことを話しましょう」
スターリンは腹を立てた。
「われわれボリシェヴィキは、友人を見捨てたことなど一度もない」
そう言って彼は詩人をなじった。
近しい人々の証言によれば、この電話のあと、パステルナークは長いあいだ詩を書くことができず、仲間を守れずに臆病者のようにふるまってしまったことを深く苦しんだ。会話はこうした屈辱的な調子のものだったが、結局、マンデリシュタームへの判決は軽減された。当初はチェルディニへの流刑だったが、最終的にはヴォロネジへの流刑となった。