ロシア絵画に裸体表現が現れたのはいつ?
西欧美術と異なり、ロシア美術はビザンツ文化の影響下で形成された。そのイコン制作は、図像における身体性の排除を規範としていた。したがって18世紀に至るまで、裸体の描写は美術的価値を想定しない、主に猥雑な絵画としてしか存在しなかった。
ロシアの画家たちがヨーロッパの美術体系を研究して取り入れるようになるのは、1757年にペテルブルクで帝国美術アカデミーが創設されて以後のことである。このアカデミーは高等教育を施すのみならず、ロシアの美術全体を規定する存在でもあった。
教育はヨーロッパ流で行われた。まずは石膏デッサンから始まり、その次の段階が、人体を解剖学的に詳細に模した「エコルシェ」のデッサン。その後ようやく生徒たちは人物デッサンに移行する。アカデミーに男性モデルのデッサン教室が開設されたのは1760年、彫刻家ニコラ・フランスワ・ジレの提案であった。女性モデルのデッサン教室が登場するのはずっと後の1893年、モスクワの絵画・彫塑・建築学院においてである。
「裸体は教育用の習作から、次第に、美を体現する独立したテーマに変化していきました」
と、トレチャコフ美術館18~20世紀グラフィック部門副部長を務めるエヴゲニア・イリューヒナさんは考察する:
「どの時代のどのアーティストにも、それぞれの目的、表現方法、芸術観に対する独自の重点の置き方がありました」
とイリューヒナさん。
18世紀美術の中心的形式は、歴史、神話、宗教のストーリーだった。こうした表現において、人物描写は理想化された、調和と美しいバランスを有する肉体を前提としていた。自然でリアリスティックな裸体の描写はタブーであり、寓意的な描写のみが唯一の正解とされた。
裸体を描いた最初期の画家の1人が、ピョートル・ソコロフである(『イカロスに翼をつけるダイダロス』1777年。『ヴィーナスとアドニス』1782年、この作品でソコロフはアカデミー会員に任じられた)。
また、イワン・アキーモフの『友のピロクテテスの見守る中自ら火葬するヘラクレス』(1782年)も好例だ。これらの絵画の登場人物は理想化され、神話上の装飾の中に描かれている。ロシアの風景や装飾が絵画に登場するのはずっと後のことで、19世紀になってからだ。
カール・ブリューロフとアレクサンドル・イワノフは古典的な伝統に抵抗して、裸体表現における飛躍を遂げた作家たちである。ブリューロフは自作の女性モデルに大胆にも官能性を加え、より生きた「リアルな」描写に踏み切った(『イタリアの朝』1823年、『バト・シェバ』1832年)。
アレクサンドル・イワノフは大作『民衆の前に現れたキリスト』(1837~1857)の制作時、モデルを理想化して描く従来通りの手法を拒否し、写実的な描写を選んだ。
彫刻家イワン・マルトスは1813年、当時の美術アカデミー副学長ピョートル・チェカレフスキーに書き送った手紙で、以下のように述べている:
「神の指が、人間のいかなる狡知によっても模倣できない素材で織った、驚異の衣服が人体なのである」。
*この記事のロシア語原文はCulture.ru