【写真特集】ロシア帝国随一の名門校、ツァールスコエ・セロー・リツェイ
ツァールスコエ・セローにある帝室ツァールスコエ・セロー・リツェイの校舎。
学校が置かれたのは、皇帝一家の郊外の離宮があるツァールスコエ・セローの壮麗なエカテリーナ宮殿の別棟だった。生徒たちはここで勉強するだけでなく、生活もしていた。一人ひとりに小さな個室が与えられ、ベッド、立ったまま勉強するための机、鏡など、必要最低限の家具が備えられていた。
帝室ツァールスコエ・セロー・リツェイにあるアレクサンドル・プーシキンの「個室」
部屋を仕切っていたのは天井にも届かない薄い間仕切りだけだった。そのため、例えばプーシキンは、親友のプーシチンと壁越しに会話を交わすことができた。
リツェイでは誰が、どのように学んでいたのか?
ツァールスコエ・セロー・リツェイを描いた19世紀の版画
リツェイに入学できたのは10~14歳の少年たちで、修業年限は6年間だった。宗教教育、法学、論理学などの道徳・倫理に関する科目のほか、文学、複数の外国語、歴史、美術、数学などを学んだ。
身体の鍛錬も重視され、体操、水泳、フェンシング、乗馬などが教育に取り入れられていた。
生徒たちは厳しい規律のもとで教育を受けたが、体罰は禁止されていた。
ここで学んでいたのは、単なる裕福な名家の子弟ではなく、まさにロシア帝国の優秀な若者たちだった。彼らは将来、国家の要職に就くことを期待され、そのための教育を受けていた。
最も有名な卒業生の一人が、長年にわたり外務大臣を務め、国家宰相にもなったアレクサンドル・ゴルチャコフだ。
10月19日、ロシア人なら誰もが知る日
ツァールスコエ・セロー・リツェイの創立記念日である10月19日は、ロシアの学校教育を受けた人なら誰もが知っている日付だ。プーシキンがこの日付を題名にした詩を何編も残し、リツェイ時代の仲間たちや学生生活を懐かしんでいるからである。
ちなみに、厳密に言えば、プーシキンの家柄はこの学校に入学するには十分に高いものではなかった。しかし、叔父のワシーリー・リヴォヴィチ・プーシキンが、リツェイの創設に関わったミハイル・スペランスキーと知り合いだったため、入学を働きかけたのだ。もっとも、後の大詩人は入学試験にも見事に合格している。
リツェイ時代のプーシキンを描いた冒険映画『18-14』のワンシーン
プーシキンは12歳から18歳までリツェイで学んだ。教師たちは彼の個人記録に、次のような評価を残している。
「気まぐれで軽率。フランス語と絵画に優れているが、算術には怠惰で、成績も振るわない」
ある試験では、宮廷を代表する詩人ガヴリーラ・デルジャーヴィンの前で自作の詩を朗読した。プーシキン自身の言葉によれば、デルジャーヴィンはこのとき、彼に「祝福を与えた」という。
イリヤ・レーピン『1815年1月8日、ツァールスコエ・セローのリツェイの試験でガヴリーラ・デルジャーヴィンを前に自作の詩を朗読するアレクサンドル・プーシキン』
1843年、皇帝ニコライ1世の命令によってリツェイはサンクトペテルブルクへ移転し、「帝室アレクサンドル・リツェイ」と改称された。移転後も宮廷の高官や上流階級の子弟たちが学び続けたが、最後の卒業生を送り出したのは1917年のことだった。