カレリアの農民がファベルジェ工房のイースター・エッグの主な制作者に

Kira Lisitskaya (Photo: Faberge Museum; Public domain)
Kira Lisitskaya (Photo: Faberge Museum; Public domain)
ミハイル・ペルヒン(1860~1903年)は、かの有名なカール・ファベルジェ社の宝飾品の名匠であり、同社唯一のロシア人正教徒だった。顧客から「引っ張り蛸」だった彼は、15年間で、彼の工房で約2万点のジュエリーを生み出した。そして、彼自ら、名高いイースター・エッグを、他の誰よりも多数作った。

 ミハイル・ペルヒンは、1860年5月22日、カレリアのオクロフスカヤ村の富裕な農家に生まれた。しかし、16歳のときに父親を亡くし、母親、妹、弟を養う責任を負った。

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 若者は、他の多くの人々と同様、サンクトペテルブルクへ出稼ぎに行った。ファベルジェの職人の一人であるスイス人、フランツ・ビルバウムが後にメモに記したところでは、ペルヒンは独学者であり、サンクトペテルブルクにやって来たときは、まだ読み書きができなかったという。

独学で頭角を現す

 若きペルヒンは、有名なボリン社の主要な宝石職人ウラジーミル・フィニコフに弟子入りしたらしい。このブランドの製品は、皇室に納められていた。例えば、ロシアの皇后や大公女の有名なダイアデムやパリュールなどだ。ペルヒンの師がこの職人だったことは、1884年にペルヒンがフィニコフの17歳の娘タチアナと結婚したことからも窺える。

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 同年、ペルヒンは、サンクトペテルブルクの金細工職人協会に副職長として登録され、金細工師の称号を与えられた。この称号は、試験に合格すると授与されるもので、応募者は、独立した世帯を持ち、少なくとも1人の職人を抱えていなければならなかった。ペルヒンの弟子であり、その後もずっと彼の主な助手を務めたのは、漁師の息子だったスウェーデンのフィンランド人、ヘンリック・ウィグストレムだ。

 ペルヒンは、1886年にはすでにカール・ファベルジェ社に入り、その主な宝石職人となった。2年後、彼は上司の後援を得て、サンクトペテルブルク総督から、自分の工房を開く許可を得た。工房は、ボリシャヤ・モルスカヤ通りのアパートに建てられた。この通りは、18世紀半ばから、宝石商の街として有名だった。

 ファベルジェ社は、皇室から特別な愛顧を受けていた。1885年には宮廷御用達の称号を授与され、看板に国章を描く権利を与えられた。さらに1890年には、皇室官房鑑定官の称号も授与。そのおかげで、店のショーウインドウやロゴに、国章を描くことができるようになった。

Faberge museum
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 カール・ファベルジェ自身は、経営者としての役割も果たしていたが、周囲に熟練した職人やアーティストを集め、新人職人の才能も見抜くことができた。主だった職人たちは各人各様に、作品に貢献し、自分の好む様式からインスピレーションを得た。たとえば、ペルヒンは、ロココ様式とバロック様式の天才であり、また、作品にロシア様式の要素を頻繁に取り入れた。

 ペルヒンはまた、多色の金やギョーシェ・エナメルの技術にも多大な貢献をし、後に他の巨匠たちも、この技術を採用した。そのため、カール・ファベルジェが1906年に息子アレクサンドルをフランスに送り、エナメル職人のルイ・グイヨンに師事させたとき、グイヨンは非常に驚き、我々の方こそロシア人から技術を学ぶべきだ、と言った。

自身のブランド

 皇室や民間からの注文は尽きることがなかった。最も重要かつ技術的に複雑な製品は、ペルヒンの工房に回された。その際に彼は、最も重要な仕事は自ら引き受けることも多かった。

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 ペルヒン工房の職人は、ファベルジェ・サンクトペテルブルク支店全体の約25% を占めており、しかも、同社の全製品の半分以上は、彼の工房で作られた。わずか15年間で約2万点が制作された。今でも骨董品市場では、ペルヒンの刻印「M.P.」が入った品をよく見かける。

 1889年にペルヒンは、ロシア帝国史上最も高価な嗅ぎタバコ入れを制作した。ダイヤモンドと皇帝アレクサンドル3世の肖像画で飾られており、ドイツ帝国宰相オットー・フォン・ビスマルクへの贈り物として作られた。ファベルジェは、この作品で1万2千ルーブル以上を受け取った。

 ペルヒンの刻印は、ファベルジェの最も高価な製品(特別に高額なイースターエッグは除く)にも刻まれている。それは、皇帝夫妻の銀婚式のために作られた1891年制作の豪華な時計だ。この時計と「ロスチャイルド・エッグ」(これもペルヒン作)は、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領からエルミタージュ美術館に寄贈された。

黄金のイースター・エッグ

 1901年にファベルジェ社が、ボルシャヤ・モルスカヤ通りの新しい自社ビルに移転したとき、ペルヒンの工房は3階を占めた。当時、彼の元にはすでに50人以上の職人が働いていた。その1年前、1900年にパリで開催された万国博覧会では、革命前で最初で最後に、皇帝のイースターの贈り物(インペリアル・イースター・エッグ)が外国に持ち出され、ペルヒンは金メダルを授与された。かの有名なファベルジェのイースター・エッグは、カレリア出身の宝石職人の最高の業績となった。

Faberge museum
Faberge museum

 研究者たちは、ペルヒンが50個のインペリアル・イースター・エッグのうち28個を制作したと考えている。ペルヒンの代表作の一つは、1897年に皇后アレクサンドラ・フョードロヴナのために作られた「戴冠式の卵」だ。太陽光線の形に広がるエナメルの色は、ニコライ2世の戴冠式の衣装に合わせて選ばれ、その上には、月桂樹のリボンの格子模様と双頭の鷲がある。サプライズとして、中にはエカチェリーナ2世の小さな馬車が隠されている。

Sergei Subbotin / Sputnik
Sergei Subbotin / Sputnik

 その他の有名な作品としては、次のようなイースター・エッグがある。例えば、ミニチュアの軍艦が付いたもの(ニコライ2世が皇太子時代に、極東へ旅した際に乗った巡洋艦「パーミャチ・アゾーヴァ」〈アゾフの記憶〉を模した)。列車を模した「シベリア横断急行」。ニコライ2世の母、マリア・フョードロヴナのお気に入りの宮殿を描いた「ガッチナ」。彼女の慈善行為を一覧できる「ペリカン」。そして、ニコライ2世と長女オリガと次女タチアナの肖像画を描いた「スズラン」などだ。

Faberge museum
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 さらに、ペルヒンは、壮麗な卵「モスクワのクレムリン」の制作を始めた(現在、クレムリンの「武器庫」に所蔵)。しかし、この作品は、ペルヒンではなく、助手のウィグストレムが仕上げなければならなかった。そして、それが贈られたのは、ようやく1906年のことだ。これは、ペルヒンが急死し、さらに日露戦争が勃発して、資金を節約する必要が生じたからだ。そのため、ファベルジェ社は、制作を2年間中断せざるを得なかった。

Moscow Kremlin museums
Moscow Kremlin museums

 絶え間ない過労のため、巨匠は43歳の若さで重い病にかかり、1903年8月に脊髄癆(せきずいろう)で亡くなった。彼の遺言に従って、工房は、忠実な弟子ヘンリック・ヴィグストレムに受け継がれた。ヴィグストレムは、ペルヒンの死後、ファベルジェ社の新しい指導的巨匠となり、皇帝のためのイースター・エッグ制作のバトンを引き継いだ。

*この記事は要約版で、オリジナルは雑誌『ロシア世界(ルースキー・ミール)』掲載されている

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