ロシアの領域内に存在し続ける最古の都市は?(写真特集)

ryabuhanazar / Getty Images
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パンティカパイオンは2500年もの長い歴史のなかで、何度も名称と住人を変えてきた。現在はケルチの名で知られる。

 パンティカパイオン(ケルチ)は紀元前7世紀後半、クリミア半島東部にギリシャの都市ミレトスから来た人々によって築かれた。現在、この街はダゲスタン共和国のデルベントとロシア最古の都市の称号を競っている。

 国立プーシキン美術館の美術考古学部長ヴラジーミル・トルスティコフ氏は、パンティカパイオンは現代ロシアの領域内に存続し続けている都市として最古であると断言する。デルベントが歴史的に盛衰を繰り返したのに対し、パンティカパイオンは間断なく存続し続けたと指摘している。

報道写真
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 都市名の由来については、2つの説がある。1つは、パンティカパ川に由来するというもの。2つ目は、古代イラン語のpanti-kapa(魚の道)を語源とするもの。これはケルチ海峡の古代の呼び名であり、魚が大量に通ることから名付けられた。

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 その独特な地理条件のおかげで、パンティカパイオンは交易の中心地として急速に発展した。紀元前6世紀半ば頃には早くも独自の銀貨を、その後は金貨を鋳造し始めている。

klim7 / Getty Images
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 紀元前480年、ギリシャの黒海沿岸諸都市は連合してボスポロス王国を形成し、パンティカパイオンはその首都となる。強大なボスポロス王国はタマン半島とクリミアの大部分、さらにアゾフ海の東岸を支配した。王国は一時期、アテネへの主要な穀物供給源でもあった。

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 紀元前2世紀末、ボスポロス王国は対ローマで共闘していたポントス王国の支配下に入った。紀元前63年、ポントス国王ミトリダテス6世エウパトルの敗走とパンティカパイオンでの自害ののち、ローマ人がクリミアに到達した。

ミハイル・モクルシン / Sputnik
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 「永遠の都」ローマはボスポロス王国を併合しなかったが、管理下には置いた。意にそぐわない王を排除し、関係の良い者を王位に据えるなど、半島における政治に介入した。ローマ海軍は圧力をかける装置として効果的で、必要に応じてケルチ海峡に出没した。

 西暦1世紀には、パンティカパイオンにローマ軍の強力な守備隊が置かれるなど、クリミア半島におけるその存在感は増した。皇帝ネロの時代、ボスポロス王国は西暦63~68年の間はローマ帝国に併合されたが、ネロの死後は再び「独立」を果たしている。

Legion Media
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 3世紀ごろからボスポロス王国にたびたび蛮族が侵入するようになった。国王たちはローマに支援を求めたが、当のローマは本国の守備さえままならない状況だった。ローマ軍部隊は次第に半島を去っていくことになる。

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 5世紀、ボスポロス王国は次第に衰退し崩壊する。その後、首都としての機能を喪失したパンティカパイオンはビザンツ帝国、テュルク・カガン、ルーシのトムタラカニ公国、ジョチ・ウルス、ジェノヴァ、クリミア・ハン、オスマン帝国と、支配者が幾度となく変わった。都市の名もカルシャ、コルチェフ、チェルキオと変遷し、ようやく現在のケルチに落ち着いた。

ウラジーミル・トレフィロフ / Sputnik
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 1774年、クリミアはケルチとともにロシア帝国の一部となった。20世紀初頭にはパンティカパイオンの建造物も、遺物さえも、地上には残っていなかった。1945年にボスポロス考古学調査行の一環として開始された体系的な学術的発掘調査は、現在も続いている。

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 この調査行の長期にわたる研究によって明らかにされた遺物は、ニジニ・ノヴゴロドのプーシキン美術館ヴォルガ・ヴャトカ分館で2025年11月16日~2026年3月1日まで開催される展覧会で公開中。