ドイツ軍のスターリングラード救出作戦
エーリヒ・フォン・マンシュタイン元帥率いるドン軍集団が突破を担当することになった。スターリングラードまでは最短でわずか40km。しかしそのルートはソ連軍の最も強固な防衛戦が敷かれていた。
そこでマンシュタインは、スターリングラードから100km以上離れた地点でソ連軍を攻撃した。予想外のことに、ソ連軍は不意を突かれる形となる。
「雪がキャタピラから跳ねている。士気は狂乱状態。それに意味があるなら、我々は『ウラー!』と叫んだだろう。出現するあらゆる目標に向けて、機関銃が耐えられる限界まで撃ちまくった…」
と、ホルスト・シャイベルト中尉は回想している。
だが、奇襲作戦の成果は尻すぼみとなる。ソ連軍は頑強に抵抗し、突破口には次々と赤軍の予備戦力が投入された。12月19日には、ドイツ軍突撃部隊の攻撃力は枯渇しかけていた。
スターリングラードまで48kmに迫ったところで、マンシュタインは第6軍のパウルスに包囲を突破して合流するよう呼びかけたが、パウルスは逡巡していた。装備用の燃料不足が懸念されており、戦車の援護無しで突破を試みれば全滅は必至だった。
同じ頃、スターリングラード北西では赤軍がリトルサターン作戦の一環でイタリア軍とルーマニア軍の師団に攻勢をかけ、これを撃破。戦線を340kmも突破して、ドン軍集団の背後に出た。マンシュタインは撤退を余儀なくされる。
第6軍の将校ヨアヒム・ヴィダーの回想より:
「部隊では元気づけられるようなニュースを待ちわびていた。辛うじて持ちこたえている前線は、クリスマス前にヒトラーが約束通り救援してくれるという希望にすがっていた。誰もが『マンシュタインが来る!』というフレーズを口にしていた…」。
だが、それは儚い期待だった。「冬の嵐作戦」に耐えきったソ連軍指導部は、命運尽きたパウルスの軍団を殲滅する作戦を準備し始めた。そして1943年の初めに、作戦は完遂されることになる。