1906年のロシア(写真特集)
1905年の第一次ロシア革命の結果、皇帝ニコライ2世は、「国家秩序の改良に関する詔書」(十月詔書)を出した。それによれば、皇帝の専制は、国民の代表が選出された機関、すなわち国会(ドゥーマ)によって制限されることになった。
1906年にドゥーマの選挙が行われた。写真は、選挙管理委員会の様子だ。
ドゥーマは、1906年5月10日に開会。その日、皇帝はすべての議員を引見し、歓迎の辞を述べた。
サンクトペテルブルクの当時の代表的写真家、カルル・ブッラは、謁見を終えて冬宮を後にする議員たちを撮影した。写真から、当時の宮殿の色彩が今と異なっていたことが分かる(現在は白と緑だが、当時は濃い赤一色だった)。
この写真は、タヴリーダ宮殿で開かれた最初の審議に出席する議員たちだ。第一ドゥーマは、72日間続き、その後ニコライ2世によって解散された。
しかし、革命的気分は収まらず、1907年まで国中でストライキやデモが時折発生し続けた。写真は、アルハンゲリスクでの集会の様子だ。
1906年、政治家ピョートル・ストルイピンは、皇帝によって内務大臣に任命され、後に首相となった。彼は、1905年のロシア第一次革命の鎮静化に重要な役割を果たした。
ストルイピンは、その雄弁と政治的才能もあって、革命家たちの標的となった。1906年には、彼に対する11回(!)もの暗殺未遂事件の一つが起きている。テロリストたちは、アプテカルスキー島の彼の別荘の近くで、「革命万歳!」と叫びながら、強力な爆発物を爆発させた。写真は、犯人たちが乗ってきた馬車だ(爆発後)。
その結果、24人が死亡し、30人が負傷したが、ストルイピン自身は無事だった。爆発後の彼のダーチャは、このような惨状だった。
1906年、ストルイピンの農地改革が実施され始めた。農民は、地主となりミール(農村共同体)を離れる可能性を得た。写真では、ストルイピンが郷(村の上の行政区画)の長老から報告を受けている。
1906年、ウスリー川流域へ最初の探検隊が派遣された。これは、極東開発において極めて重要な任務だった。この探検隊を率いたのは、軍事地理学者ウラジーミル・アルセーニエフだ。地元の狩猟家でタイガの事情に詳しいナナイ人、デルス・ウザラー(*発音はウザーラではなくウザラーが近い)が、彼に同行した。アルセーニエフは後に紀行文『デルス・ウザラー』を出版した。また、黒澤明監督がこれを映画化した日ソ合作映画『デルス・ウザーラ』(1975年)は、アカデミー賞(外国語映画賞)を受賞した。
1905年、日露戦争が終結し、ロシア帝国は敗北した。1906年に捕虜たちは帰国した。写真では、サンクトペテルブルクの医師たちが包帯している。
重傷を負った将兵は、全国の病院で治療を受け続けた。
1906年、文豪レフ・トルストイは、ノーベル文学賞候補に挙がった(それまでにも何度か候補になっているが、授与はされていない)。しかし作家は、自分を受賞者にしないように、前もって頼んでいる。
一般庶民のふだんの暮らしはどのようだったか?彼らは、例えば、サモワールでお茶を飲んでいた。
あるいは、ダーチャ(別荘)で休息していた。
女性たちの学習意欲は高まっていた。写真は、ヤロスラヴリのギムナジウムの女子生徒たち。