ピョートル1世はなぜ息子を殺したのか?
アレクセイは1718年7月7日、拷問によって命を落とした。そしてその翌日、彼の父は「ポルタヴァの戦い」の勝利記念日を喜々として祝っていた。
長男アレクセイは、「ピョートルの偉業」を継ぎ、国家体制の近代化と領土の拡大を続け、帝国の富をさらに増大させていくべき存在とみなされていた。しかし、現実は全く違った。
アレクセイは学業の意欲が低く、国家の運営や戦争などにも全く関心を示さなかった。エネルギッシュで激情家のピョートル1世も息子に才能を見出せず、「およそ国家のことには役立たず」と酷評した。
アレクセイ皇太子
1715年、ピョートル1世とアレクセイ皇太子の両者に男児が生まれ、いずれもピョートルの名を与えられた。こうした「予備」の後継者の誕生によって余裕を得た皇帝は、長男に対し最後通告を行う。思慮分別を身につけるか、修道院に入るか、選択を迫った。「さもなくば、お前を悪党として処遇する」とも付け加えた。
アレクセイ皇太子は国外に逃亡し、親戚にあたる神聖ローマ皇帝カール6世を頼った。アレクセイはロシアの帝位を狙っている旨を宣言し、オーストリアではこの逃亡者をどう利用すべきか、思案を巡らせることになった。
しかし、ロシアの外交官たちは皇太子を説得して帰国させた。ピョートルは赦しを約束したものの、その約束に反して結果は厳しいものとなった。アレクセイは廃嫡され、その後、「父および皇帝に対する反逆」の罪を追及された。
ピョートル1世はアレクセイ皇太子を、これまで自らが築き上げてきたものに対する反動勢力の陰謀の中心的存在とみなした。アレクセイ皇太子の側近のうち数名は処刑され、皇太子自身も死刑を宣告された後、拷問の末に1718年7月7日に死去した。父のピョートル1世は、その翌日にはポルタヴァの戦勝を記念した祝賀会を派手に楽しんでいる。