モスクワ・クレムリンで大公ドミトリー・ドンスコイの聖骸を発見

セルゲイ・ヴラソフ/ロシア正教会総主教庁広報局 / Sputnik
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キプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)に大打撃を与え、ロシア復興の端緒を開いた大公の遺体を納めた石棺が、アルハンゲリスキー大聖堂の床の修復工事中に発見された。

聖骸の発見

ヴィャチェスラフ・プロコフィエフ / Sputnik
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 ドミトリー・ドンスコイがアルハンゲリスキー大聖堂に埋葬されていることは、彼の死去当時から知られていた。その埋葬場所は年代記にも記されている。しかし、そこにある遺骨が実際に本人のものであることは、これまで確認されていなかった。今回、大公の聖遺骸そのものが実際に発見され、さらに科学的調査によって本人のものであることが確認された。

 モスクワ・クレムリン内にあるアルハンゲリスキー大聖堂では、床石の沈下に伴う定期修復工事が行われていた。その際、南側の壁沿いにある地下墓所のレンガ造りの墓碑が解体され、その下から、白い石を一体成形した3基の石棺が現れた。

 ここにはドミトリー・ドンスコイのほか、父である大公イワン・クラースヌイと、ウグリチ公ドミトリー・ジルカも埋葬されていた。

ヴィャチェスラフ・プロコフィエフ / Sputnik
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 ロシア正教会の関係者によれば、ドミトリー・ドンスコイの遺骨は、ほぼ完全な状態で残されていた。欠けているのは左足の踵骨だけだという。骨の保存状態は良好で、死後に損傷を受けた痕跡も見られないとされる。

 専門家らは、発見された遺骨が、まさに大公ドミトリー・ドンスコイ本人のものであることを確認した。

キプチャク・ハン国を破った英雄、そしてクレムリンの建設者

 ドミトリー・ドンスコイは14世紀後半(1350~1389年)を生きた人物である。ロシア史において、彼はとりわけ2つの大きな功績によって知られている。第1に、キプチャク・ハン国に重大な軍事的敗北を与えたこと。これは多くのロシア人画家によって描かれてきた、有名なクリコヴォの戦いである。第2に、モスクワ公国の基盤を強化したことだ。そのため彼は、国民的英雄としてだけでなく、聖人としても崇敬されている。

 1380年9月8日、現在のトゥーラ州にあるドン川上流のクリコヴォ平原で行われた戦いは、彼の治世で最も有名な出来事である。「ドンスコイ」という異名も、この戦いに由来する。ドミトリー公は、さまざまなルーシ諸公国の軍勢を結集し、キプチャク・ハン国西部の事実上の支配者だった軍司令官ママイの大軍に立ち向かった。

エフゲニー・レオノフ / Sputnik
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 伝説によれば、戦いを前にドミトリー公は、有名な聖人セルギイ・ラドネジスキーから祝福を受けたという。そして最終的に、ロシア軍は勝利を収めた。

 もっとも、この戦いによってロシアの諸地域がただちにキプチャク・ハン国の支配から解放されたわけではない。2年後にはモンゴル軍によってモスクワが焼き払われている。それでも、この勝利には大きな精神的意義があった。キプチャク・ハン国は決して無敵ではなく、打ち破ることができるという事実を示したからだ。

 ドンスコイは、軍人としての名声だけでなく、賢明で先見の明をもつ統治者としても記憶されている。彼はモスクワ公国を大幅に強化した。

 1367~1368年には、モスクワ・クレムリンの木造の城壁を、より堅固な白石造りの城壁へと建て替えた。これは北東ロシアにおける最初の石造要塞だった。

 また、ロストフ公国やリャザン公国など周辺の諸公国を従属させながら領土を拡大し、モスクワの権力を強化することにも成功した。

ヴィャチェスラフ・プロコフィエフ / Sputnik
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 さらに彼は、モスクワの歴代公のなかで初めて、キプチャク・ハン国のハンの承認を得ることなく、息子ワシリー1世に大公位を継承させることに成功した。これは、キプチャク・ハン国からの独立へ向けた重要な一歩となった。