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画家たちが描いたイワン雷帝の生涯

ヴィクトル・ヴァスネツォフ『雷帝イワン4世』、1897年
イワン4世、通称雷帝はロシア史上最も評価の分かれる皇帝の1人である。広大な領土の獲得、国家体制と軍制の刷新といった功績がある一方、反対派に対する苛烈な弾圧や恐怖政治といった側面もある。

1.ピョートル・シャムシン、『イワン4世のカザン入城』(1894年)

ヴェレシチャーギン記念ムィコラーイウ美術館

 15世紀末のイワン3世の頃、ロシアはモンゴルの政治的・経済的依存からの脱却を果たした。その孫のイワン4世の時代には、崩壊したモンゴル帝国ジョチ・ウルスの領土へ急速に拡張していった。1552年、雷帝はカザン汗国を併合し、4年後にはアストラハン汗国も陥落した。

2.ニコライ・ネヴレフ、『オプリーチニキ』(1890年代)  

ガパル・アイティエフ記念キルギス国立美術館

 1565年、雷帝はその専制体制の強化と、反抗的貴族を制するべく、国家をオプリチニナ(古ロシア語で、除く、別個のという語から)とゼムシチナに分けた。より豊かな前者の土地は皇室領となり、皇帝は無制限の権力を行使した。後者は貴族会が管理したが、重要な事項は全て皇帝自らが取り決めた。

 イワン雷帝の親衛隊であるオプリーチニキは、皇帝の意に沿わず反逆を疑われた貴族や聖職者たち対し恐怖政治を行った。その犠牲者の1人が、貴族のイワン・フョードロフ=チェリャドニンである。一説によると、1568年9月11日、彼は侮辱的に皇帝の服を着せられて玉座に座らされ、皇帝は一礼した後に剣で刺し殺したという。

3.ヤコフ・トルルィーギン、『イワン雷帝を告発するフィリップ府主教』(19世紀)

ヴルーベリ記念オムスク州立美術館

 モスクワ府主教フィリップ2世は、皇帝の専制を勇敢にも公に非難した数少ない人物の1人であった。このため聖職を追われ、トヴェリの修道院に幽閉される。そして1569年12月23日、オプリーチニキのマリュータ・スクラートフによって絞殺された。17世紀半ばに、フィリップは聖人に列された。

4.ミハイル・クロット、『イワン雷帝の前に現れる彼に殺された者たちの影』(19世紀末~20世紀初頭)

スタヴロポリ地方美術館

 イワン雷帝の命令、あるいはオプリーチニキの専横により殺された人々の正確な数は分からない。推定では3千人から、数万人という説まである。

5.アレクサンドル・リトフチェンコ、『イワン雷帝、英国大使ホーシーに財宝を見せる』(1875年)

ロシア美術館

 16世紀半ば、ロシアの北部沿岸にイギリスの船が現れた。モスクワに辿り着いたイギリス側はイワン4世に謁見し、両国間の長期的な経済関係について合意した。皇帝はイギリスに対し、ロシア全土の都市における無税での貿易権と、モスクワに貿易会社の事務所を開設することを許可した。こうしてイギリスは、その後長期間にわたってロシアの最重要な経済パートナーとなったのである。

6.イリヤ・レーピン、『1581年11月16日のイワン雷帝とその息子イワン』、(1883~1885年頃)

トレチャコフ美術館

 皇帝の息子、イワン・イワノヴィチは1581年11月19日、27歳の若さで死去した。その死因は、未だに謎とされている。一説によると、父イワン雷帝と激しく口論した末に、怒りに駆られた父に錫杖で打たれて致命傷を負ったという。

7.スタニスラフ・ロストヴォロフスキー、『赤玄関でイワン雷帝に謁するイェルマークの使い』(1884年)

エカテリンブルク美術館

 1581年、イェルマーク率いるコサック軍はモンゴル帝国分裂後の最後の砦の1つ、シビル汗国に侵攻、順調に進軍していった。この侵攻は商人ストロガノフ家が組織したものだが、さらに大規模な支援を必要としていたコサック軍は、皇帝に使者を送り、献物とシベリア征服の報をもたらした。喜んだイワン4世はコサックの過去の罪を赦し、褒美と援軍を送った。

8.ピョートル・ゲレル、『臨終のイワン雷帝にスキマの位を授ける府主教』(1887年)

ロシア美術館

 罪を清めるために、臨終に際して修道士となる伝統がロシアの統治者にあったが、これはビザンチンからもたらされた習慣である。イワン雷帝は存命中、修道士になりたい旨を幾度となく語っていたが、実現したのは1584年3月、死の直前であった。一説によると、脳卒中の発作で意識を失った雷帝に対し、雷帝の懺悔司祭であったフェオドシイ・ヴャトカが儀式を執り行ったとされる。そしてイオンの名を与えられ、修道僧の服装で埋葬された。