
モスクワのユニークな凱旋門に関する4つの事実

2度再建された

1812年の祖国戦争(ナポレオンのロシア遠征)での勝利は、ロシア社会における愛国心と誇りのかつてない高まりをもたらした。1815年のパリ入城から帰還したロシア軍は、皇帝アレクサンドル1世とともに、祖国で真の勝利の歓迎を受けた。さまざまな資料によると、モスクワのトヴェリ関所に、皇帝を迎えるために木製の凱旋門が建てられたという。しかし、後にモスクワ市民は、戦争で戦ったすべての人々に敬意を表し追悼したいと考え、石造りの凱旋門が必須だと判断した。建設は、1834年に完了した。イワン・ヴィターリが制作した騎馬像の下には、アレクサンドル1世に捧げられた銘板があった。その碑文は、プロジェクト全体を設計した建築家オシプ・ボヴェーが書いた。こうしたいきさつから、1917年の革命以前は、凱旋門はしばしばアレクサンドル門と呼ばれていた。
聖職者たちが凱旋門の成聖(聖別)を拒否

凱旋門の盛大な除幕式では、気まずい事件が起きた。モスクワの聖職者たちが、彫刻やレリーフ(浮き彫り)に困惑、動揺し、記念碑の成聖(聖別)を拒否したのだ。彫刻家イワン・ヴィターリ、イワン・ティモフェーエフ、フョードル・トルストイが、凱旋門を「堅固さ」と「勇気」の寓意的な彫像や、勝利と栄光の女神をはじめ、古代オリンポスの神々の彫像で装飾したからだ。レリーフには、ローマのミネルヴァとギリシャのヘラクレスが描かれていた。
ソ連時代に撤去

ソ連の新首都モスクワの発展により、都市計画が調整された結果、凱旋門は、市内の交通を妨げるということになり、1936年に解体された。一部の断片は、ドンスコイ修道院に運ばれた(当時、その敷地内には建築博物館があった)。しかし、1960年代に、ボロジノの戦い(1812年戦役における主な戦い)が想起され、次の記念日を盛大に祝うことが決定された。同じ頃、作家セルゲイ・マルコフが、凱旋門を修復することを提案した。市当局は、この考えを支持した。
新たな場所で再建

しかし、元の場所に再建することは不可能だった。凱旋門が、建設済みの幹線道路を塞いでしまうからだ。そのとき、市当局は、クトゥーゾフスカヤ・スロボダーに通じる大通りを改良するという1946年の計画を思い出した。しかし、全体の構造の細部しか残っていなかったため、アーカイブの図面と写真を使って、凱旋門を実質的に再建する必要があった。1968年11月までに工事は完了した。凱旋門の碑文は変更され、勝利者、皇帝アレクサンドル1世に捧げられるのではなく、1812年戦役における全体の勝利を記念することとなった。
*この記事は、短縮版であり、オリジナルは雑誌『ルースキー・ミール(ロシア世界)』に掲載された。