
ロシア文学における5人のドン・ファン

1.エラスト。ニコライ・カラムジンの中編小説『哀れなリーザ』

1792年に書かれた、主情主義(センチメンタリズム)の代表的な小説。当時としては画期的な作品であり、大きな反響を呼んだ。カラムジンは(おそらくロシア文学で初めて)、生活に密着した現実的な悲恋を題材にしており、一般読者から大いに歓迎された。
うら若いリーザは、父の死後、母と二人で暮らしを立てるために働いていた。ある日、ハンサムな貴族のエラストと出会い、彼に心を奪われ、誘惑される。しかし、親密な関係になった後、彼はリーザへの興味を失い、数日後、自分の連隊と共に去ってしまう。しばらくしてリーザは、彼が別の女性と婚約していることを知る。悲しみに耐えかねた彼女は、入水自殺する。
*日本語訳:『あわれなリーザ』(除村吉太郎訳)、『世界文学全集 古典篇 第27巻』、河出書房、1954年。
2.ドン・ファン。アレクサンドル・プーシキンの戯曲『石の客』

プーシキンは、一連の短編戯曲『小悲劇』に収められた戯曲において、スペインの女たらしのイメージを再現した。モーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』に、インスパイアされている。
プーシキンは主人公を、古風に「ドン・ファン」と呼んでいる。筋は次の通りだ。ドン・ファンは、マドリードから追放されたにもかかわらず、密かに街に舞い戻り、墓地で、夫の墓参りをしていたドナ・アンナに偶然出会い、恋に落ちる。ところが、実はドン・ファン自身が、決闘で彼女の夫、つまり騎士長を殺していたのだった。また、彼は、かつての恋人(女優ラウラ)を訪れるが、そこで嫉妬から、彼女に言い寄る男(騎士長の兄弟)も殺してしまう。
ソビエト映画では、詩人・俳優・シンガーソングライターのウラジーミル・ヴィソツキーがドン・ファンを情熱的に演じた。ちなみに、プーシキン自身も、ドン・ファンと呼ぶにふさわしい人物だ。結婚前には幾多の浮名を流しており(その多くは彼の詩に反映されている)、詩人が自身の恋の成就をすべて書き記したという「ドン・ファン・リスト」(30人以上の名前が挙がっている)が伝わっている。
*日本語訳:『青銅の騎士:小さな悲劇』(郡伸哉訳)(ロシア名作ライブラリー 3)、群像社、2002年。
3.グリゴリー・ペチョーリン。ミハイル・レールモントフの長編小説『現代の英雄』

人生に倦んだシニカルなペチョーリンは、アンチヒーローだ。人を愛することも、友情を結ぶこともできない。あたかも、非業の死を求めてずっと生きているかのようで、自らを平気で危険にさらし、人の気持ちなど考えない。
ペチョーリンは、カフカスの領袖の娘ベーラを騙し(正確には馬と交換し)、結婚しないまま彼女と同棲するが、彼女の将来などまったく考えていない。ついに娘がこの誘拐犯に恋心を抱き始めると、彼は逆に冷淡になり、彼女を一人置いて家を空けることが多くなる。ある日、ベーラは家の近くで、かねてから彼女に惚れていた男にさらわれる。男は、ペチョーリンらと銃で撃ち合った末、ベーラを短剣で刺して逃亡。ベーラは、間もなく息を引きとる。
保養地で、ペチョーリンはかつて関係をもっていた既婚女性と再会する。その一方で、気まぐれに、友人が恋している公爵令嬢メリーをも自分に惚れ込ませてしまう。劇的な三角関係は決闘へと発展する。
*日本語訳:
『現代の英雄』(中村融訳)、岩波文庫、1981年。
『現代の英雄』(北垣信行訳)、未知谷、2014年。
『現代の英雄』(高橋知之訳)、光文社古典新訳文庫、2020年。
4.アナトーリ・クラーギン。レフ・トルストイの長編小説『戦争と平和』

トルストイが最も深く関心を寄せたのは、道徳的な問題だったと言えよう。作家自身も生涯を通じて情欲や低劣な思念に苦しんだ(それは日記にも現れている)。そのため、彼の小説に登場する主人公、および不倫や裏切りをめぐる出来事は、実にドラマチックに描かれている。
アナトーリ・クラーギンは、悪名高い女たらしで、全作のヒロイン、ナターシャ・ロストワの若さとナイーヴさにつけ込む。
彼女は、アンドレイ・ボルコンスキー公爵と婚約していたが、アンドレイの父の要求で、結婚式は1年後に延期され、アンドレイは外国へ保養に出かける(戦傷を癒すためだった)。長い別離を強いられたナターシャは、無聊に苦しんでいた。美男子のプレイボーイ、アナトーリは、こんな状況にあったナターシャを魅了し、誘惑して接吻する。
二人は、逃亡と秘密の結婚式を計画するが、事は露見し、アナトーリは逃亡する。しかし、少女の名誉は傷つけられ、アンドレイとの婚約は破談となる。
*日本語訳:
『戦争と平和』(藤沼貴訳)、岩波文庫 全6巻、2006年、ワイド版2014年。
『戦争と平和』(望月哲男訳)、光文社古典新訳文庫 全6巻、2020~2021年。
『戦争と平和』(工藤精一郎訳)、新潮文庫 全4巻、改版2005~2006年。
『戦争と平和』(北御門二郎訳)、東海大学出版会 全3巻、新版2001年。
5.グリゴリー・メレホフ。ミハイル・ショーロホフの長編小説『静かなドン』

ロシア文学では、女性を次々にとっかえひっかえするような登場人物は、それほど多くない。しかし、三角関係なら、しばしば登場する。ボリス・パステルナークの『ドクトル・ジバゴ』のように、二人の女性を同時に愛する者もいる。また、めくるめく情熱に駆られ、自分を見失うような者もいる。これは、コサックのグリゴリー・メレホフのことだ。
『静かなドン』は、第一次世界大戦、革命、そして内戦を背景に展開する。グリゴリーは、赤軍と白軍の間で、そして妻と隣家の人妻アクシーニャの間で、絶えず葛藤し迷う。こうした葛藤は、一つの道に絞り切れない、彼の情熱的な性格の一端をなすものとして、劇的に描かれる。
*日本語訳:
『静かなドン』(横田瑞穂訳)、岩波文庫 全8巻、復刊1988年ほか。
『静かなドン』(原卓也訳)、新潮社「世界文学全集」全2冊。