作家ドストエフスキーがロシア初の「ブログ」を立ち上げる:寄付ボタンはなかったが
すべては1873年に始まった。雑誌『市民(グラジダニーン)』の編集長兼発行人となった、フョードル・ドストエフスキーが、同誌に自分のコラム「作家の日記」を載せることを決めたのだった。
雑誌の仕事には、彼はすぐに疲弊した。が、世の中のありとあらゆることについて定期的に発言するというアイデアは、とても魅力的に思えた。そこで彼は、現在では作家ブログと呼ばれる形式を考え出した。そして、一人の作家、つまり彼自身の月刊誌の発行を始めたわけだ。
新聞の刊行告知は次のようなものだった。「F・M・ドストエフスキーの月刊誌『作家の日記』のの購読受付を開始しました。各号には、週刊新聞の体裁により、字間の詰まった活字で、全紙が1枚半から2枚(約8万字)の文章が掲載されます」
各号は毎月末に発行され、すべての書店で、20コペイカで個別に販売された。1年間分の購読を前もって希望する人には、割引が適用され、2ルーブル(送料・手数料別)で購入できた。郵送または宅配を利用する場合は、2ルーブル50コペイカだった。
発行部数は、毎号約6千部。現代風に言えば、このプロジェクトは、独立採算が可能だっただけでなく、その発案者に安定した収入をもたらした。
月刊誌『作家の日記』は、1876~1877年、そして1880~1881年に発行された。作者は、その形式について、「その月に個人的に印象に残ったこと」と表現している。そのため、『日記』の各ページには多種多様なテーマが見られる。子どもと幼少時代、科学の発展、心霊術、ロシアとヨーロッパの関係、国民意識の問題、自殺、若者の問題、農民解放、フランス共和国の宣言、東方問題、セルビ人とモンテネグ人の解放戦争などなど。これらがいずれも同じく詳細に取り上げられた。
また、同誌には、文芸作品の書評や自らの文学作品なども掲載されていた。そして、これらすべてを一人のライター、すなわちドストエフスキー自身が執筆した。
この企画は好評を博し、作家は、ロシア全土の読者から手紙を受け取った。ドストエフスキーはそれらの手紙を丁寧に扱い、多くの手紙に返事を書いている。これらの返事は、『作家の日記』にも掲載されており、これは、現代のブログのコメント欄を彷彿とさせる。『日記』の最終号は、1881年1月に出版された。2月に作家が亡くなったからだ。