トルストイはいかに世界を変えたか

キラ・リシツカヤ(写真: Getty Images)
キラ・リシツカヤ(写真: Getty Images)
 作家レフ・トルストイ(1828~1910年)は、菜食主義を発明したわけでも、私有財産や死刑を否定した最初の人物でもない。しかし、彼はこれらの思想を唱道し、できるかぎり実践しようとした最初の人物の一人だ。ここでは、彼の死後に世界中に流布した、その主要な思想をご紹介しよう。

菜食主義

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 「私の食事は、主に温かいオートミールで、1日に2回、全粒粉パンといっしょに食べる。昼食には、キャベツスープかジャガイモスープ、そば粥かジャガイモ(ひまわり油かマスタードオイルで茹でたり揚げたりしたもの)、プルーンとリンゴのコンポートを食べる。牛乳、バター、卵、砂糖、紅茶、コーヒーをやめてから、私の健康は、損なわれないどころか、むしろ著しく改善した」。トルストイはこう記している。

 作家は、こうした食事に、壮年期に(50歳を過ぎてから)行き着いた。これは、彼の中核となる二つの思想の論理的な延長線上にあった。二つの思想とは、道徳的な人生への道としての禁欲と非暴力だ。

死刑の否定

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 死刑は、トルストイの5つの論文において中心テーマであり、長年にわたり彼の思索の主題だった。歴史的経験に基づき、彼は、刑罰としての死刑は無意味だと主張した。もし人が悪行を犯すことを止められるものがあるとすれば、それは、他者と自分自身の両方にとっての、その害悪を理解することだ、と彼は信じていた。

 死刑に反対する彼の論拠は、以下の通りだ。

・キリスト教におけるあらゆる暴力の禁止と、『旧約聖書』の戒律「汝殺すなかれ」。

・死刑は、人々の目に暴力と武器の使用を正当化するものと映るため、社会の道徳観が低下する。

・死刑執行された者は、もはや更生の可能性をもたない。

・無実の者が処刑されかねない。

・見せしめの効果はない。処刑された者は、しばしば殉教者と化してしまう。

平和主義

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 周知の通り、トルストイは若い頃、将校であり、4年10か月の軍務中に、非常に優れた働きを示した。彼は、熟練した騎手として名高く、また、数学の知識をもち、砲兵将校として傑出しており、率先して賢明に行動した(砲兵将校には数学の知識が必須である)。

 彼は、誠実な勤務ぶりにより勲章とメダルを授与された。勇士のしるしである聖ゲオルギー十字章には、3度推薦されたが、さまざまな事情により受章することはなかった。 

 1856年に彼は退役した。そして時が経つにつれ、彼はますます平和主義を信奉するようになっていった。悪に対して暴力をもって抗するなかれ、という彼の有名な理念は、1880年代後半から1890年代初頭にかけて、最終的に形を成した。

 彼は、さまざまな国の平和主義者と友好的な文通を始め、また、論文「私の信仰とは?」を書いた。これらを通じての思索の結果は、「神の王国はあなたの中にある:神秘的な教えではなく、人生の新しい理解としてのキリスト教」という著作にまとめられている。

教育活動

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 トルストイのもう一つの重要な思想は、すべての民衆に対する教育だった。彼は、自身の領地ヤースナヤ・ポリャーナに、「農民の子供たちのための実験的な学校」とでも言うべき学校を開いた。そこで彼は、自分の理念を共有する数人の教師とともに教鞭をとった。

 トルストイは、ジャン=ジャック・ルソーと同様に、子供は生まれながらに純粋であり、社会や大人によって堕落させられると信じていた。そのため、教師は子供たちに学習を強制すべきではなく、むしろ生徒に、自分に興味あるものを選択する自由を与えるべきだと主張した。そして、教師は子供たちの中にすでに備わっている善きものを育むよう助けるべきだとした。

 トルストイが開設した学校には、厳格なカリキュラムや座席規則はなかった。生徒たちはランダムに着席し、教師の主な目標は、生徒たちを学習プロセスに積極的に参加させることだった。トルストイの教育思想は、多くの点でマリア・モンテッソーリが編み出した教育システムに似ている。

私有財産の否定

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 1870年代末~1880年代初め、この有名作家は、人生の目的の喪失という精神的危機に陥り、その後、彼の財産への見方は根本的に変わった。1891年に彼は、1881年以降に執筆・出版した作品の著作権を放棄した。また、彼は、家族のために「共産主義的」な計画を立てた。それは、収入と財産の大部分を貧困層に分配し、自ら労働して質素な生活を送るというものだった。

 しかし、彼の計画は、家族の猛烈な抵抗に遭った。妻は夫に、こう誓いさえした――自分は、皇帝に謁見して、その足下にひれ伏して、夫トルストイを狂人だと宣告したうえ財産管理権を剥奪するよう請願する、と。1884年にトルストイは、家族に見切りをつけ、財産管理のすべてを妻に委ねて、初めて家出を試みた。

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