1870年代後半、ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(1840~1893年)は、新しいオペラのプロットを探し求めていたが、なかなか思いつかなかった。詩人アレクサンドル・プーシキンの韻文小説『エフゲニー・オネーギン』の筋を土台にする着想は、偶然に生まれた。作曲家自身の語るところによれば、このアイデアは、1877年5月にオペラ歌手エリザヴェータ・ラヴロフスカヤから提案されたという。
「その考えは、私には突飛なものに思えた…。それから、居酒屋で一人昼食をしているときに『オネーギン』のことを思い出し、考えてみた。すると、ラヴロフスカヤのアイデアが実現可能だと思い始め、夢中になってしまい、食事が終わるころには決心していた」。チャイコフスキーは、弟モデスト宛ての手紙にこう記している。「私はすぐにプーシキンの本を探しに行った。苦労して見つけ、家に帰って読み返し、有頂天になり、一晩中眠れなかった。その結果、プーシキンのテキストを用いた素晴らしいオペラの台本が生まれた」。
オペラの作曲を始めてからも、舞台で成功すると信じる人は、あまりいなかった。作曲家の近親者や友人のほとんどが、彼の選択は間違いだったと考えていた。「現代的な」プロット、壮大なシーンや予想外の展開の欠如、そして登場人物の一人が劇の最後ではなく途中で死ぬことなど…。
チャイコフスキー自身もその難しさを認識しており、次のように考えていた。彼のオペラは「失敗作と決めつけられ、大衆の関心を惹かないだろう。内容は凝ったところがなく、舞台効果も皆無で、音楽には華麗さや派手さが欠けている…。私は、『オネーギン』を、とくに余計な目的をもたずに書いたのだが、劇場では面白くないことが分かった」。
彼の予想は実際、現実となった。オペラの初演は事実上、室内楽としてモスクワのマールイ劇場で行われ、モスクワ音楽院の学生たちによって演奏された(1879年)。
聴衆の反応があまり良くなかったにもかかわらず、作曲家は上演に満足していた。それは主に、「自分の作曲に、自分としては満足を感じていたから」。
しかし、チャイコフスキーは依然として、『オネーギン』が大舞台にふさわしくないと考えており、帝都サンクトペテルブルクの帝室劇場での上演は期待していなかった。しかしモスクワでは、『エフゲニー・オネーギン』をボリショイ劇場で上演することが決まった。
「昨晩、我々は…『オネーギン』を聴いた。劇場は満員だった。朝早くにチケット売り場で『売り切れ』の看板を見たので、ブローカーから5ルーブルでチケットを買った。一階の観客はとてもおとなしかったが、二階正面では文字通りうめき声が聞こえた…。あなたが関わっている出版社のケチさを知らなかったら、きっと“さくら”を雇ったのだ、と思っただろう。でも、そうではなかった。お金であんなふうに働くことはない…」。音楽出版社のピョートル・ユルゲンソンは、ボリショイ劇場での初演から1か月後、チャイコフスキーにこう書き送っている。
批評家たちは、『オネーギン』に賛否両論だった。オペラがだらだら続く、印象的な音楽的パッセージに欠ける、音楽そのものが単調で退屈だ、といった意見もあった。チャイコフスキーが…音楽的センスがないと批判されたほどだ!しかしその一方で、そのすばらしい「音楽の劇的なシーン」に注目し、「見事に繊細な水彩画」に例える者もいた。
チャイコフスキー自身は、弟子で作曲家のセルゲイ・タネーエフに宛てた手紙の中で、次のように認めている。
「音楽について言えば、もし自分の音楽が真摯な情熱と、物語や登場人物への愛情を込めて書かれたことがあったとしたら、それは『オネーギン』だ。作曲中、私は言葉に尽くせない喜びに心が震え、文字通りとろけそうになった。もし聴き手が、このオペラの作曲中に私が感じたことのほんの少しでも共感してくれるなら、私はとても満足だし、それ以上何も求めない」。
ボリショイ劇場での初演後、オペラ『エフゲニー・オネーギン』は、ロシアの主要な劇場すべてのレパートリーとなった。作曲家の生前にすでにプラハとハンブルクで上演されており、現在では世界各国でしばしば上演される。
*この記事の全文(ロシア語)は、『ロシアの世界(ルースキー・ミール)』のサイトで見ることができる。