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これだけでも知っておきたい、イワン・シーシキンの名画10選

トレチャコフ美術館
彼は森のツァーリとも呼ばれ、精力的にロシアの自然を賛美する絵を描き続けた。

 イワン・シーシキンはエラブガの商人の家に生まれた。生家はトイマ河岸の小高い土地にあり、そこからの景色は抜群だった。シーシキン少年は早くから、精密科学よりも美術に惹かれた。最初に入学したカザンのギムナジウムは退学し、役人になることも頑として拒否した。聖堂のイコノスタシスに着彩するためにエラブガにやってきたモスクワの画家たちと知り合うと、モスクワ絵画・彫刻学校への入学を夢見るようになった。その熱意に両親は必ずしも賛同したわけでは無かったものの、挑戦を許した。

パブリックドメイン

 ほどなくして、森の風景を描く若者は学校中の評判となった。4年後にペテルブルクに移り住むと、芸術アカデミーに進んだ。 

1.デュッセルドルフ近郊の景色、1865年

ロシア美術館

 アカデミーを修了後、シーシキンは長いヨーロッパ周遊に出た。1864年の夏はデュッセルドルフで過ごした。雨の多い時季であったが制作に支障は無く、むしろ空模様の変化を研究する良い機会だった。

 『デュッセルドルフ近郊の景色』に描かれたロマンチックな風景は、メセナのニコライ・ブィコフの依頼で描いたもの。ブィコフはこの作品を芸術アカデミー会議に送り、添え状に「この画は才能と実力を証明するものである」と書いた。この作品で、シーシキンはアカデミー会員の称号を得た。

2.『伐採』、1867

トレチャコフ美術館

 ロシアに帰国後、シーシキンはいったん故郷エラブガに戻り、そこからカマ川流域の旅に出た。1867年にはヴァラアム島を訪れ、数点の大作を描いた。『伐採』は、そのうちの1つ。目立たない細部にも美を見出し、自然の脆さを発見するのがシーシキンの真骨頂だった。そのため、画面の中心は広葉樹でも鬱蒼とした密林でもなく、伐採したばかりのマツなのである。

3.『正午 モスクワ近郊にて』、1869

ロシア美術館

 翌年、シーシキンは結婚する。妻のエヴゲニヤ・ワシリエワは、門下生フョードル・ワシリエフの姉だった。シーシキンはさらに制作に没頭する。欧州旅行から帰国後にモスクワ郊外で描いた習作をもとに、夏の雨上がりの美しさを丹念に風景画に仕上げた。この作品は、有名コレクターのパヴェル・トレチャコフが購入した最初のシーシキン作品だった。トレチャコフにとって、『正午 モスクワ近郊にて』は彼が美術に込めた期待を非常に良く表していた:「豊かな自然も、素晴らしい主題も、効果的な照明も、奇跡もいらない。欲しいのは、汚い水たまりでもいい、そこに真実と詩情があれば…」。

4.『松林 ヴャトカ県の森』、1872年

トレチャコフ美術館

 「私はロシアの森が心底好きで、そればかり描いている」と、シーシキン自身が語っている。1870年に彼は移動派サークルの発起人の1人となった。親友のイワン・クラムスコイも仲間入りしていた。2人は共に旅行し、絵の題材となる風景を探し求めた。シーシキンはクラムスコイのアトリエで本作を制作し、芸術家奨励協会のコンクールに出品した。コンクールの選考会はこの作品に最優秀賞を贈っている。

5.『密林』、1873年

ロシア美術館

 クラムスコイは、「シーシキンは、ロシア風景画の発展の里程標であり、生ける流派である」と評している。この『密林』でシーシキンは芸術アカデミー教授の称号を得た。シーシキン曰く、特に好む題材は「トウヒ、マツ、ヤマナラシ、白樺、シナノキの森。沼は実に素晴らしい」とのことである。彼は順風満帆かに思われたが、この頃は様々な苦難に見舞われている。2人の息子、ヴラジーミルとコンスタチンがいずれもわずか2歳という幼さで相次いで亡くなった。1874年には妻のエヴゲニヤも死去する。制作が、唯一の慰めだった。

6.ライ麦畑、1878年

トレチャコフ美術館

 1880年に再婚。相手は弟子の1人で、芸術アカデミーの女子学生としては最初期のうちの1人であるオリガ・ラゴダだった。翌年には娘のクセーニヤが生まれるが、幸福な長くは続かず、その翌月にオリガが死去。シーシキンの悲しみは深く、愛する妻であり、才能豊かな画家であった女性の死を惜しんだ。「彼女のアルバムを、スケッチを、習作を、描きかけの絵を見たら、君は驚嘆するだろう。彼女の作品は、かつての我々も、今の作家たちも夢にも思わなかったほどのものなのだ」と、シーシキンは嘆いた。

7.『オークの木々』、1887年

ロシア美術館

 1880年代末にシーシキンはたびたびセストロレツクを訪れ、現地の公園で習作用の風景を探し求めた。「ペテルブルクに戻ったら、動物を描くためのアトリエをドゥプキに作れるよう、努力してみる。なにしろ、ドゥプキは素晴らしい場所なのだ」。このアトリエで描かれた『オークの木々』を、第15回移動派展覧会に出品している。

8.『松林の朝』、1889年

トレチャコフ美術館

 この頃、シーシキンは友人のコンスタンチン・サヴィツキーと共同で最も有名な作品『松林の朝』を制作している。シーシキンが早朝の松林を、サヴィツキーが倒木によじ登るユーモラスな子熊たちを描いた。この作品はパヴェル・トレチャコフが4000ルーブルで買い上げた。トレチャコフはこの作品について、「シーシキンらしい描写スタイルやメソッドを雄弁に物語っている」と評した。

9.『冬』、1890年

ロシア美術館

 1894年、シーシキンは芸術アカデミー付属学校の風景画工房の教官となった。学生から慕われ、ひんぱんに助言を求められたという。シーシキンも快く応えたが、学生をすぐに褒めるべきではないと考えていた。時にはそのための行き違いが起き、批評された女子生徒たちが号泣することもあった。

10.『コラベリナヤの林』、1898年

ロシア美術館

 「展覧会にマツの香りが漂った。太陽と光がやってきた!」と、当時この作品について語られた。エラブガからほど近い場所の森林が描かれたこの作品は、シーシキンの絶筆となった。1898年3月19日、アレクサンドル3世美術館(現ロシア美術館)のオープンセレモニーに出席していた。翌朝、セレモニーを報じる記事が載った新聞が届くのを待つ間に下絵を描き、次の作品に取り掛かった時、急死した。

 *シーシキン作品は、サンクトペテルブルクのロシア美術館で2026年11月9日まで開催中の特別展「イワン・シーシキン ロシアの森林」にて数多く展示中。