ロシアの文豪たちとダーチャ
ロシア人がダーチャ(別荘)を持つようになったのは、ピョートル1世(大帝)のおかげである。彼は側近たちに、サンクトペテルブルク近郊の土地を与え、郊外の屋敷を建てさせた。こうして2つの問題が解決された。宮廷人たちは「手近なところ」に置かれ、同時に新しい首都の周辺地域には活発に人が住みつくようになったのである。このとき、「与える」を意味する動詞「ダヴァーチ」(давать)に由来する「ダーチャ」(дача)という語も生まれた。
19世紀末までには、「ダーチャ」とは、自分の所有であれ賃貸であれ、あらゆる郊外の住居を指すようになっていた。夏になると、都市の喧噪と埃から遠ざかるために、街を離れるという慣習も生まれた。
「夏には、モスクワの住民の大多数が、モスクワ近郊に数多く建てられていたダーチャへ出かけた。そこでは自然のなかで生活が営まれていた。モスクワに残った人々は“殉難者”と見なされた」。画家コンスタンチン・コローヴィン(1861~1939年)は、このように回想している。
『ドクトル・ジバゴ』の作者ボリス・パステルナーク(1890~1960年)は、郊外での生活を好んだ。「私は都会の夏が怖い…。そこでの孤独は、狂気や地獄の苦しみによる孤独に匹敵している。埃、砂、蒸し暑さ、アフリカさながらの暑熱」
フョードル・ドストエフスキー(1821~1881年)は、冬のうちからダーチャでの休暇を計画しはじめていた。
「ダーチャの問題は私たちにとってあまりにも重要なので、私たちはウラジスラヴレフ家の助言に従い、スタラヤ・ルーサ(*ノヴゴロド州の古都)でダーチャを借りることを彼らに依頼した。ウラジスラヴレフ家はその場所をほめ、鉱泉をほめ、安さと快適さをほめている。たしかに、湖の多い土地で湿っぽいことは知られているが、仕方がない。鉱泉は瘰癧に効き、リューバ(*次女)にも役立つだろう」
イワン・ブーニン(1870~1953年)は、ダーチャでの休息を楽しんでいた。
「私がまた夏を過ごしている田舎の家は、建てられてから1世紀半になる。そして私には、その古さを思い出し、感じることがいつも心地よい。…まだ朝で、軽い風がときおり部屋を通り抜ける。窓はすべて開け放たれている。私の左手にある窓からは、喜ばしく明るい陽光が斜めに窓台へ差し込み、太陽の下で数えきれない葉をきらめかせる庭の濃い緑が見える。その奥には影が、そしてなお新鮮な涼しさが潜んでいる。庭は、あるときは動きを止め、静まり返り、またあるときは波打つように揺れ、そのときには、まだまったく夏そのものの、絹のようなざわめきとなって私のもとまで届く…」
アントン・チェーホフ(1860~1904年)は、ダーチャでの生活をこよなく愛していた。
「私の頭は、夏とダーチャのことでいっぱいだ。干し草の上に寝転ぶことや、釣り竿にかかったペルカ(パーチ)のほうが、批評や拍手喝采する桟敷席よりも、はるかに確かな満足感を与えてくれる」。彼は、劇作家イワン・レオンチエフにこう打ち明けている。
理想的な郊外休暇の計画は、次のようなものだった。「耕すこともなく、種を蒔くこともなく、ただ自分の楽しみのために生きること、ただ清らかな空気を吸うためだけに生きること…」
すべてが変わったのは、チェーホフがモスクワ郊外のメリホヴォに屋敷を手に入れてからだった。彼のなかで、突然、園芸家が目を覚ましたのである。
「私は…農業については、土が黒いということしか知らない――それ以上は何も知らない」。こう自認していたにもかかわらず、チェーホフは桜、林檎の木、そして数えきれないほどのライラックを植えた。
同じ熱意をもって、彼はヤルタの自邸の敷地を整え、薔薇を含めて庭の手入れを自ら行った。
「ここでは、1本1本の木が私のいるあいだに植えられた。もちろん、それは私にとって大切なものだ。だが、重要なのはそれだけではない。そもそも、私が来る前、ここは荒地で、ばかげたような谷があり、すべてが石とアザミに覆われていた。そこへ私がやって来て、この野生の場所を、文化的で美しい場所に変えたのだ。ご存じだろうか、300年か400年もすれば、全地上は花咲く庭に変わるだろう。そしてそのとき、生活は驚くほど軽やかで快適なものになるだろう」
多くの作家たちは、サンクトペテルブルク郊外のガッチナを気に入っていた。作家アレクサンドル・クプリーン(1870~1938年)はこう認めている。
「私は、自分のために、愛してやまない村の完全な幻影を作り出すことができた。そしてそれこそが、われわれ同業の者にどうしても必要な心の平安を唯一もたらしてくれるのだ」。ここには彼の庭があり、家禽小屋があり、彼はそれらの世話に飽きることがなかった。