ロシアの亡命作家セルゲイ・ドヴラートフ:ニューヨークの通りにその名を残す
ニューヨークのクイーンズ区に、セルゲイ・ドヴラートフ・ウェイ(Sergei Dovlatov Way)が誕生したのは、2014年のことだ。ロシアの作家セルゲイ・ドヴラートフ(1941~1990年)は、まさにこの通りに10年間暮らしていた。
セルゲイ・ドヴラートフが名声を得るまでの道のりは、決して平坦ではなかった。事実上ソ連から追放された友人ヨシフ・ブロツキーとは異なり、ドヴラートフは自らの意思で国を離れた。それは1979年のことだった。ソ連では、イデオロギー上の理由から彼の作品はほとんど出版されず、生活の糧を得ることも次第に難しくなっていた。
しかし、多くの亡命者とは違って、ドヴラートフは英語をかなりよく知っており、アメリカのジャズや文学も好んでいた。ヘミングウェイ、ヴォネガット、フォークナーなどである。そのため、ほかの亡命者たちのようにタクシー運転手やクリーニング店の仕事をする必要はなかった。アメリカにはすでに友人がおり、ロシア語による亡命者向けの新聞も存在していた。彼は渡米後すぐに、ロシア語新聞『新しいアメリカ人』の編集長となった。また、妻と娘は彼より先に出国し、ニューヨークでかなり安定した生活を築いていた。それもまた、彼が亡命を決意した理由の一つだった。
現地の出版関係者にも友人がいた。アナーバー市の出版社「アーディス」を経営していたカール・プロッファーとエレンディア・プロッファー夫妻である。彼らは、ソ連で発禁や不遇の扱いを受けていたロシア人作家の作品を数多く出版していた。1980年代にドヴラートフの本の大半を出版したのも、彼らだった。一方、祖国ロシアで彼の本が出版されるようになるのは、1990年代に入ってからだ。
ソ連知識人の放浪
セルゲイ・ドヴラートフは1941年、ウファで生まれた。戦争中、両親がレニングラード(現サンクトペテルブルク)からこの地へ疎開していたためだ。しかし1944年には、一家は再びレニングラードへ戻った。
ドヴラートフはつねにレニングラードの詩人たちと親しく交流していた。本人も大学で文学を学んだが退学となり、その後はジャーナリズムを学んだ。しかし運命は――そして何より生活費を稼ぐ必要は――彼をさまざまな経験へと導いた。そして、その一つ一つが新たな作品へと結実していった。
1970年代初頭のドヴラートフ。
義務兵役では、収容所の警備兵として勤務した。この経験から生まれたのが『収容所――監視兵の手記』である。ドヴラートフの遺した作品のなかでも、とりわけ力強く、強烈な印象を与える一冊だ。
その後、ドヴラートフは数年間エストニアに暮らし、現地の新聞社で記者として働いた。その体験を描いたのが、悲喜劇的な短編集『妥協』だ。
また、プーシキン博物館保護区でガイドとして働いた経験は、中編小説『サンクチュアリ』に反映されている。
短編集『かばん』では、作者は文字どおりアメリカへ行くためのスーツケースを詰める。持っていくのは、最低限必要なものだけだ。そして、その一つ一つの品物に、それぞれの物語がある。
ドヴラートフのすべての作品を貫く中心的なテーマは、全体主義体制のなかで何とか「うまく立ち回りながら」生きていかなければならなかったソ連人の悲喜劇的な生活だ。
「涙を浮かべながら笑うこと」――これこそ、彼の短編が広く愛された最大の秘密だった。読者の多くは、そこに描かれた光景のなかに、たちどころに自分自身を見いだした。それは、流行のジーンズを非合法な手段で手に入れようと奔走することであったり、党の指導部から命じられた無意味な仕事をこなすことであったりした。
大きなものは、遠くからこそよく見える
ロシアの著名な、あるいは偉大な作家のなかには、国外で創作活動をした者が少なくない。ゴーゴリ、ツルゲーネフ、ゴーリキー、ブロツキーなどである。
そのため、「祖国というものは、遠くからのほうがよく見える」という冗談まで生まれた。
ドヴラートフもまた、その系譜に加わった。しかも彼は、まさに亡命後に有名作家となったのである。そして、ウラジーミル・ナボコフ以後、権威ある雑誌『ザ・ニューヨーカー』に短編が掲載された最初のロシア人作家となった。
1989年、ニューヨークにいるセルゲイ・ドヴラートフ。
ドヴラートフはロシア語でしか執筆しなかったが、優れた翻訳者たちと緊密に協力していた。しかし、彼の作品を翻訳することは容易ではなかった。
短編の名手であったドヴラートフは、ロシア語を自在に操り、独特の人物像や会話を作り出した。登場人物の性格を、その話し方そのものによって表現したのである。彼らの言葉遣いからは、社会的地位も、教育程度も、出自も読み取ることができた。
彼の最高傑作の一つとされる『サンクチュアリ』は、何人もの翻訳者が英訳を試みたが、最終的にそれを成し遂げたのは、ドヴラートフの娘カテリーナだった。
生き方としてのノスタルジー
これほどの成功を収めながらも、ドヴラートフの心は深い郷愁に満ちていた。
隅々まで知り尽くしていたレニングラードへの郷愁。詩人仲間たちへの郷愁。そして、かつての生活そのものへの郷愁だ。
娘のカテリーナは、あるインタビューでこう語っている。
「父が祖国を離れて暮らしたことは悲劇だったのだ、という話がずいぶんなされてきました。もちろん、父にはノスタルジーがありました。でも、父が恋しがっていたのは、場所そのものというよりも、むしろ過ぎ去った時代だったのです。人間は年を重ねるほど、自分の思い出を振り返るようになり、失われたものを惜しむようになるのでしょう」
サンクトペテルブルクのルビンシテイン通りにある、セルゲイ・ドヴラートフの記念碑。
ドヴラートフは1990年、心不全のため亡くなった。
祖国でようやく自分の本が出版されるようになる、その光景を目にすることはついになかった。