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祝いの席に欠かせない「毛皮を着たニシン」の歴史

Legion Media
ホロジェッツ、オリビエサラダ、ミカン、そして「毛皮を着たニシン」がお祝いのテーブルを象徴する料理となったのは、ソ連時代。だが、似たようなサラダはロシア以外の国にも、ずっと以前から存在した。

ドイツとスカンジナビアのニシンサラダ

エルミタージュ美術館

 毛皮を着たニシンとよく似た素材で作るサラダが、19世紀のドイツ、ノルウェー、デンマーク、その他の欧州諸国で広まった。ニシンは最も安価な魚の1つで、貧しい農民や職人でも買えた。これに自らの畑で育てた野菜を加えると、安価でシンプルながらボリュームのある料理となった。

 19世紀後半頃になると、ニシンのサラダはロシアでも人気を獲得した。魚、茹でたジャガイモ、ニンジン、ビートと、素材は現在とほぼ同じである。

「毛皮を着たマス 戴冠式のガッチナ風」

エルミタージュ美術館

 現在の「毛皮を着たニシン」の原型となったのは、一説によると、モスクワのレストラン「ロシア」のシェフが開発した魚の冷たい前菜であったという。1883年、アレクサンドル3世とマリア・フョードロヴナ皇后の戴冠式を記念してグラノヴィータヤ宮殿で開催された昼食会の準備に参加した彼は、そのために特別なメニューを用意した。マスの切り身の上にカブやビートなどの野菜を層状に重ね、これにプロヴァンス風ドレッシングをかけてアンチョビを添えた。カブとビートは皇帝の礼服の色を、黒い斑点のある白いソースは、縁がオコジョ毛皮で飾られた皇帝のマントを表した。 

 この料理は「毛皮を着たマス 戴冠式のガッチナ風」と名付けられたが、この命名はいささか失敗で、その日の皇后をからかうような響きであった。当日、皇后はオコジョの毛皮で装飾された衣裳であった。マスは当時、デンマークから輸入されていたが、当の皇后もまたデンマーク生まれであった。そして皇帝夫婦はペテルブルグ近郊のガッチナに住む予定であった。結果的に、料理名は政治的なジョークという様相を帯びてしまった。

 昼食後、アレクサンドル3世は自らシェフと話をして、この前菜が悪意をもって作られたのではないと分かり、厳しい処罰は不要だと確信した。が、それでもこの一品のレシピからマスを外すよう命じた。その後長い間、この料理に使われる魚はアンチョビだけになり、レストラン「ロシア」のメニューにもその状態で加えられ、「シューバ(毛皮、外套)」という名がついた。やがて、モスクワっ子の好みにあわせてレシピがアレンジされる。アンチョビとカブは外して、軽く塩漬けしたニシンを使うようになった。

「排外主義と退廃にはボイコットと破門を!」

フレッド・グリンバーグ / Sputnik

 異説もある。それによると、「毛皮を着たニシン」は1919年にモスクワの商人で料理屋オーナーのアナスタス・ボゴミロフが考案したとされる。彼の店の客たちは不安定な政情をめぐって盛んに議論し、立場の違いから口論に発展することも多く、果ては喧嘩になって皿は割れる店の備品は壊れるの騒ぎも度々だった。そこでボゴミロフは「皆を結びつける」料理として、ソビエトの新社会の様々な階層を象徴する食材を使った前菜を考案した。安価なニシンはプロレタリアートを、タマネギとジャガイモとニンジンは農民を、赤いビートは赤軍兵士を、当時人気上昇中だったマヨネーズはブルジョアをそれぞれ象徴していた。

 ボゴミロフはこのサラダを「ШУБА(シューバ、毛皮や外套の意)」と名付けたが、これは頭文字語で、「Шовинизму и упадку — бойкот и анафема!(排外主義と退廃にはボイコットと破門を!)」というスローガンの頭文字をとったものである。ボリュームあるこの一品は前菜としてアルコールにもよく合い、おかげで客も酔いが回るのが遅くなり、口論や喧嘩沙汰も激減したという。

 ボゴミロフはこの料理を年明け前に初披露したという。こうした経緯があって、「毛皮を着たニシン」はソ連の新年を祝う象徴的な料理の1つとしての地位を得たとされる。

 この記事の全文は、Culture.ruのサイト上にロシア語版が掲載されている。