ロシア語における「活動体」と「不活動体」:どう理解すればよいのか?
活動体というカテゴリーは、偶然に生じたものではない。研究者たちの考えでは、これは、人間の脳が生きた対象と生きていない対象とを区別し、それにより潜在的な配偶相手、競争相手、捕食者、あるいは獲物を見分ける能力が、言語の中に反映されたものだ。
また、我々は、自分たちとどこか似ている対象を活動体として捉える。対象に「人間らしい」特徴を多く付与するほど、その対象を言語が活動体として扱う可能性は高くなる。
活動体の主な特徴としては、次のようなものがある。
- 自力で動く能力
- 周囲の環境に働きかける能力
- 感じる能力
- 人体との類似性(目、手足、口などを備えていること)。
意味ではなく文法に影響する
活動体か不活動体かは、文法に直接影響を及ぼす。たとえば、それによって対格における語形が決まる。
比較のために挙げると、次のようになる。
- видеть отца(父に会う)、любить брата(兄弟を愛する)、убить быка(牡牛を殺す)。これらの名詞は活動体だ。対格は、生格の形になる。
- купить дом(家を買う)、построить храм(聖堂を建立する)。これらの名詞は不活動体であり、対格は、主格の形を取る。
とはいえ、活動体/不活動体のカテゴリーは、何よりも文法的なものであり、時には常識に反することもある。たとえば、“снеговик”(雪だるま)は活動体名詞だ。
ほとんどの医学用語(例えば “эмбрион”(胚、胎児)など)もまた不活動体名詞だ。そこにはまさに「生命の始まり」があり得るにもかかわらず、そう扱われる。したがって、“труп” (死体)という概念も不活動体名詞だ――生きた人間とのつながりを失ってしまったかのように。
一方で、 “покойник”(死者)、“мертвец”(死人)は活動体名詞だ。なぜなら、これらの語は、たいてい具体的な人物について語る場合に用いられ、「魂のない」 “труп”(死体)について語る場合とは異なるからである。
段階的に「魂」が与えられた
現代における活動体というカテゴリーは、スラヴ諸語に特有の、きわめて独自な現象だ。
原スラヴ語では、男性単数の主格と対格の形が一致していた。語順が自由である条件のもとでは、これは曖昧さを生む危険があった。そのため、対格の形を区別する必要が生じたわけだ。
「古ロシア語(古東スラヴ語)では、活動体のカテゴリーは徐々に単語を『取り込んで』いった。現存する最古の文献では、対格の代わりに生格の形を取るのは、社会的に重要な人物や神を表す語だけだった。この過程は、社会的・生物学的ヒエラルキーに沿って『上から下へ』進んだ。最初は権威ある人物(公、父)、次に奴隷、召使い、身分の低い者たちを表す語、その後になって動物名が加わった」。ポータルサイト「グラモタ・ル」の編集者アントン・ソルダトフは、こう書いている。
複数形における活動体のカテゴリーが最終的に確立したのは、ようやく16~17世紀のことだった。
活動体と不活動体のゆれ
現代語には、その語が活動体形も不活動体形も取り得る例が数多くある。活動体か不活動体か判断する際には、常に文脈が重要だ――その対象が独立した機能を担っているのか、それとも道具として用いられているのか、ということである。適切な形をどう選ぶべきか。概念が人間に近いほど、それはより「活動体的」なのだ。
人間的特徴を与えられた玩具やキャラクターは、活動体へと傾く。たとえば、кукла(人形)や снеговик(雪だるま)がそうだ。これに対して、人を表す名称が物に転用されると、その語は活動体としての性格を失う。たとえば、“отдал «Москвич» в ремонт”(自動車のモスクヴィッチ〈*元来はモスクワっ子の意味〉を修理に出した)という場合だ。
海産物を表す語については、一般に次の規則が働く。生きている間は、その語は活動体名詞である(“поймать анчоуса”〈カタクチイワシを捕まえる〉、“разводить устриц”〈カキを養殖する〉)。しかし、それが食べ物になると、両方の形が可能になったり、不活動体が優勢になったりする(“приготовить анчоусы〈カタクチイワシを調理する〉”、“подать устрицы”〈カキを供する/カキを出す〉”)。
*記事の完全版は、ポータルサイト「グラモタ・ル」にロシア語で掲載されている。