ベリーの隠喩:「いちご」(エロチックなもの)から「枝垂れクランベリー(大ぼら)」まで
こうした種類の言い回しは、ほとんどどんな場面にも見つけることができる。たとえば、何かきわどいものについては「клубничка」(kluʙnicka いちご)と言うことがある。この意味でベリーの名を使った最初の一人が、作家ニコライ・ゴーゴリだ。彼の小説『死せる魂』では、ある登場人物が女好きで知られる人物について、こう語っている。
「信じられるか、あいつは平凡な女さえ見逃さなかったんだ。本人はそれをこう呼ぶんだよ、『いちごのお楽しみを味わう』ってね」
また、作家ミハイル・サルトゥイコフ=シチェドリンは、この「いちご」の隠喩を、恋愛遍歴を描く大衆文学というジャンル全体にまで広げ、そのような本を「клубницизм(klubnitsizm いちご主義)」と呼んだ。
一方、いかにもありそうにないことについては、苦笑しながらこう言う。
「いやいや、そんなのは『枝垂れクランベリー』(大ぼら、噓八百)じゃないか!」
この表現は、その言い方自体にすでに逆説がある。というのも、クランベリーの茂みは丈が低く、枝が垂れ下がるはずなどないからだ。ちなみに、この表現が現れたのは20世紀初頭のことだった。
サンクトペテルブルクのある劇場で、恋愛の情熱を描いたフランス劇のパロディーが上演されていた。そのヒロインが、愛する人と「古いクランベリーの垂れた枝の下で」座っていたことを語る場面があったのだ。このイメージがあまりにも逆説的だったため、たちまち民衆のあいだに広まった。
何もかもがこの上なくうまく運んでいるなら、こう言ってよい。
「人生っていうより、まるでラズベリーだ!」
人生の歩みについては、こんなことわざもある。
「45歳、女はまたベリーになる」
昔は、女性は15~16歳で早く結婚するのが普通だったので、45歳にもなると子どもはすでに成長しており、もっと手のかからない別のことに気持ちを向けることができた、というわけだ。
では、ほかにもいくつか「ベリー」にまつわることわざを見てみよう。
1.«Одного поля ягоды» (同じ畑のベリー)
考え方や振る舞いなど、多くの共通点を持つ人々について言う。
2.«Всякую ягодку в руки берут, да не всякую в кузов кладут»(どんなベリーも手には取るが、どんなベリーも籠に入れるわけではない)
選択をするときには注意深くあるべきだ、ということだ。
3.«Первую ягоду в рот клади, а вторую домой неси»(最初のベリーは口に入れ、二つ目は家へ持ち帰れ)
楽しみと実利とのあいだで、バランスを取るべきだという意味だ。
4.«Медведя бояться, так ягод не видать»(熊を恐れていたら、ベリーは見つからない)
危険を冒さなければ、目標は達成できない。
5.«В сентябре одна ягода, и та – горькая рябина»(9月にはベリーはひとつしかない、しかもそれは苦いナナカマドだ)
秋の初めにはベリーの季節は終わる。どれほどラズベリーやイチゴを集めたくても、もうできない。そこから転じて、条件が整っていなければ、望む結果は得られない、という意味のことわざになる。
6.«На одном кусте ягод не насобираешь»(ひとつの茂みだけではベリーは集めきれない)
目標を達成するには、忍耐力を蓄えなければならない、ということだ。