ロシアの詩人・修道女がいかにしてフランス・レジスタンスのヒロインとなったか

Fine Art Images/Heritage Images / Getty Images
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エリザヴェータ・ピレンコ(1891~1945年)は、名前、居住地、そして国籍を幾度も変えた。「銀の時代」の詩人であり、アナパ市長であり、革命家だったこともある。第二次世界大戦の時期には、ナチス・ドイツ占領下のパリで、ユダヤ人と子供たちを守った。そして、「母マリア」の名で、ナチスの強制収容所で亡くなった。

 リーザ(エリザヴェータの愛称)は、1891年12月、父が検事補を務めていたリガ(当時はロシア帝国)で生まれた。4年後に一家は、黒海沿岸の保養地アナパに移り、そこで、計2500ヘクタールに及ぶ2つの領地を相続した。

パブリックドメイン リガにあるエリザベート が生まれた家の記念プレート
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 1909年、リーザは、サンクトペテルブルクのギムナジウムを卒業して、ロシア初の女子高等教育機関の一つであるベストゥージェフ女子大学に入学した。間もなく結婚したが、3年後にアナパへ移住した。サンクトペテルブルクでの生活は彼女を苦しめ、夫との関係も悪化していた。

 リーザは、「何か偉大なことを成し遂げたいと思ってきたが、この世のあらゆる虚偽のために、死を願った」。この間、彼女は神学を学び、サンクトペテルブルク神学アカデミーを受験した。彼女はこれを「単に自分のために」行ったという。当時、女性は神学者になることができなかったからだ。

ロシア正教会モスクワ教会
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 1915年に彼女は、宗教・哲学風の中編小説『ユラリ』を出版した。その主人公は詩人、放浪者、説教者、賢者であり、キリストの福音の道を歩もうとする人物だった。

 彼女は、1917年の二月革命を歓迎した。ロシアの未来は、民衆の幸福な生活になる、彼らは、キリスト教を基に、新しい社会を築いていくであろうと、彼女には思われた。彼女は自らの意志で、60ヘクタール以上の土地と、長年学校として使われてきた、祖父のかつての邸宅を、コサックに無償で利用させた。同年春に彼女は、社会革命党に入党し、刷新された「民主的な」市議会に選出される(*社会革命党は、略称「エス・エル」。ナロードニキの流れをくむ左派政党で、後にボリシェヴィキに弾圧される)。

 しかし、1918年のクリスマスに、中央の政権を奪取していたボリシェヴィキが街に現れた。間もなくリーザは、市長に選ばれ、市の経営に全面的に責任を負うこととなり、彼女の言葉によると、ボリシェヴィキと正面から対立することになった。選挙から2週間後、市議会議員は一斉に辞任したが、リーザは屈しなかった。彼女は、連合「前線兵士の妻」の女性たち、難民、そして「反革命的発言」を理由にボリシェヴィキに逮捕された教師たちを助けた。

 この頃、彼女は、クバン地方議会議員ダニイル・スコブツォフと出会う。彼はまさに、彼女がかつて探し求めていた「地上の男」となった。1919年夏、二人は結婚した。今や、詩人にとって何よりも大切なのは家族だった。1917年から1923年まで、彼女はほとんど何も書かなかった。社会革命党での活動にも、関心を失っていた。 彼女はこう信じていた。革命は、ロシアの滅亡をもたらしたが、それは、神の意志の成就であり、贖罪の犠牲であった。その犠牲を、ロシア国民は、全人類の未来のために払った…。

 1920年3月、アナパは赤軍に占領された。リーザは、グルジア(ジョージア)に逃れ、1924年に夫と子供たちとともにパリに居を定めた。

ロシア正教会・モスクワ教会 亡命中のエリザヴェータと子供たちのユラ、ガヤナ、ナスチャ。
ロシア正教会・モスクワ教会

 1926年、幼い娘が髄膜炎で亡くなったことは、リーザにとって大きな打撃となり、やがて彼女は、修道女になることを決意する。1932年、パリの聖セルギイ正教神学院の聖セルギイ聖堂で、修道誓願を立てた。彼女は、エジプトの聖マリアにちなんで、修道名マリアを与えられた。

 母マリアは、修道院の壁の中に閉じこもることなく、困窮する人々のために宿舎や食堂を設立し、結核患者のための療養所も開いた。

 ナチス・ドイツがパリを占領すると、母マリアは、ルールメル通りの隠れ家に、ユダヤ人、逃亡したソ連将兵の捕虜、フランスの地下戦闘員をかくまい、彼らを安全な場所に移すために書類を作成した。

 刑務所では、逮捕された多くのロシア人亡命者が、彼女から小包を受け取った。また彼女は、パリのヴェロドローム(自転車競技場)で3日間を過ごした。それは、ナチスがユダヤ人をアウシュビッツに送るために集めた場所だった。彼女はそこから、ゴミ箱に4人の子供を詰め込んで、密かに脱出させた。

 1943年、ゲシュタポは、ルールメル通りを捜索し、母マリアの息子で、主要な助手の一人だったユーリーを逮捕した。翌日、彼女は自らゲシュタポに出頭した。そうずれば、ユーリーは釈放されると約束されたからだが、約束は守られなかった。

 母マリアの最後の「殉教の道」が始まり、1945年3月31日、ラーフェンスブリュック強制収容所のガス室での死に至った。ユーリーは1944年、ミッテルバウ=ドーラ強制収容所で亡くなっていた…

 

*この記事は要約版であり、オリジナルは雑誌『ルースキー・ミール』(ロシア世界)に掲載された。

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