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ロシアの「葬儀委員会」とは何か、そしてその設立の経緯は?

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最初の「葬儀委員会」は、1725年のピョートル1世(大帝)の逝去を受けて、追悼行事を組織するために設けられた。それ以前は、いわゆる「パニヒダ・プリカーズ」(追悼庁)によって、その任務が遂行されていた。

 この委員会は、それ以前の追悼庁とは異なり、西欧の基準にしたがって活動した。例えば、ロシアでは18世紀以降に、死去した君主のデスマスクをとり、葬儀では騎士の剣と盾を用いるようになった。

ピョートル1世の死去。記念日歴史カレンダーよりの銅版画、ピーテル・シェンク(子)、1725年
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 葬儀委員会は、新帝の側近から選出された、葬儀の司会者と儀典長が仕切った。そして、この役職には、複数回就くことができた。例えば、ニコライ・ユスーポフ公爵は、ピョートル3世、エカテリーナ2世、そしてパーヴェル1世の葬儀で、3度司会を務めた。

 委員会のメンバーは、さまざまな部門から採用され、それぞれの分野で最も優秀な人材が集められた。その中には、官吏、商人、画家、建築家などが含まれており、総勢50名以上にのぼった。

 彼らは、皇宮の一角で活動していた。部屋は、服喪の雰囲気に包まれ、机には黒い布がかけられた。書類は、喪に際しての特別な用紙に記され、黒い封蝋で封印された。

 委員会は、葬儀の全過程を監督し、参列者、喪の時期と内容、必要な用具の調達を決定した。専用の部署が、式次第を当時の国際語であったフランス語に翻訳し、葬儀に参列する予定の外交官に配布した。

イヴァン・ニキーチン作《臨終のピョートル1世》
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 葬儀の後、委員会は経費を報告し、委員たちは金銭と贈り物を受け取り、解散した――次の機会までの間だが。

 ピョートル大帝の葬儀にまつわる遺物や当時のさまざまな品は、展示会「ピョートル大帝最後の勝利――とこしえに」で見ることができる。モスクワ・クレムリン博物館にて、2026年2月1日まで開催中。