18世紀のロシアで、どうやってパイナップルを育てていたのか
18世紀前半、ピョートル大帝はヨーロッパ文化とともに、南国の果実パイナップルをロシアに持ち込み、一大ブームを巻き起こした。当時、食卓にパイナップルを並べることは、富と洗練の象徴。社交界でのステータスを示す行為でもあった。だが、厳しい寒さのロシアで、いったいどうやってこの果実を手に入れたのだろうか。
南米からロシア宮廷にパイナップルを運ぶのは、極めて困難な試みだった。長い航海の途中で果実が傷み、腐ってしまうことが多かったためだ。 そこで登場したのが、「自国で育てる」という発想である。
栽培の中心となったのは、ガラスとレンガで造られた温室(オランジェリー)。北側には冷気を遮る厚い壁が設けられ、内部ではストーブが絶えず燃やされていた。こうして一年を通じて一定の温度が保たれたのである。
パイナップルは地面ではなく、大きな移動式の鉢で育てられた。夏は屋外、冬は屋内へと移動できる仕組みだ。腐植土、砂、腐葉土を混ぜ合わせた特製の土壌が用いられた。
王侯貴族の「トロピカル・ステータス」
産業規模には至らなかったものの、ロシアの園芸家たちは驚くほどの成果を上げた。 ツァールスコエ・セロー、ガッチナ、ペテルゴフといった王宮の温室では、王族の食卓を彩るために多くのパイナップルが育てられた。貴族の邸宅でも同様だ。モスクワ郊外のシェレメーチェフ家のクスコヴォ邸には巨大な温室があり、レモンやブドウ、桃と並んで数百個のパイナップルが実を結んでいた。アルハンゲリスコエやユスポフ家など、裕福な家々でも“北国の果樹園”が整えられていたという。
1個=牛1頭分の贅沢
パイナップル栽培には、熟練した庭師を雇い、薪で暖房を絶えず維持する必要があった。その費用は莫大で、熟したパイナップル1個のコストは牛1頭に匹敵したという。 自邸の温室で育てたパイナップルを客人に振る舞うことは、究極のもてなしであり、同時に富の誇示でもあった。
ロシア産パイナップルの終焉
19世紀末、ロシアのパイナップル栽培は静かに幕を閉じる。 第一の理由は、蒸気船による物流の発達である。熱帯からの輸送が容易になり、温室で育てるよりもはるかに安価に入手できるようになった。 第二の理由は、農奴制の廃止に伴う荘園経済の衰退だ。無償労働力を失った貴族たちは、維持費のかかる温室を手放さざるを得なかった。