ちょうど220年前、アウステルリッツの戦いがあった
1805年12月2日、ロシアとオーストリアの連合軍がフランス軍とモラヴィアで激突。この戦場にはアレクサンドル1世、フランツ2世、そしてナポレオンがいた。そのため、「三帝会戦」とも呼ばれる。
フランス軍7万3千に対し、連合軍は8万5千と、数に優っていた。しかし、総司令官ミハイル・クトゥーゾフ将軍は戦闘を避けて後退し、フランス軍の連絡路を引き延ばしつつ、増援を待つべきと提案した。
これに対し、栄光を欲したアレクサンドルは、オーストリア軍の策を採用。それは、ただちに攻勢に出てフランス軍右翼に攻撃を集中し、これを突破して敵の背後に回るというものだった。
ナポレオンにとって、これは勝機となった。連合軍の前線が伸び、フランス軍陣地に対する攻撃が膠着し始めるのを待って、ナポレオンは突如連合軍の中央部を攻撃。プラツェン高地の占拠に成功した。
これによって寸断された連合軍は、たちまち統制を失った。攻勢を強めるフランス軍の前に、連合軍の左翼が潰走。ピョートル・バグラチオン将軍指揮下の右翼はしばらく持ちこたえたが、やはり撤退を余儀なくされた。
アレクサンドルとフランツは戦闘終結を待たず、急いで戦場を離脱した。連合軍の損害は2万7千人以上、フランス軍は1万2千人を失った。
第三次対仏大同盟は瞬く間に崩壊した。オーストリアは欧州における優位を喪失。ナポレオンは神聖ローマ帝国の解体に着手し、ドイツ再編を推し進めることになる。