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なぜドイツ軍はソ連のこの装甲列車を「緑の幽霊」と呼んだのか?
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独ソ戦(大祖国戦争)の初期、赤軍は、各都市の防衛に装甲列車をしばしば使った。それらの1つは装甲列車BP-5「ジェレズニャコフ」だ。敵はそれを「緑の幽霊」と呼んだ。
76ミリ砲、迫撃砲、機関銃を備えた「ジェレズニャコフ」は、1941年11月に、クリミア半島のセヴァストポリ市の防衛に臨んだ。これは、黒海の要の港湾のために戦った唯一の装甲列車ではなかったが、他のものはすべて間もなく破壊された。
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しかし、「ジェレズニャコフ」は驚くべき機動性で際立っていた。暗緑色に塗られたこの装甲列車は、まさに神出鬼没であり、現れるや敵に猛攻を加え、すぐさま都市の近くにあるトンネルの1つに姿を消した。このとらえどころのない「車輪上の要塞」の名高い通称は、これに由来する。
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だが、1942 年 6 月 27 日、「ジェレズニャコフ」の運命は暗転した。ドイツ空軍は、装甲列車のシェルターの 1 つを爆撃し、乗員もろとも瓦礫の下に葬った。ちょうどその一週間後、セヴァストポリそのものが陥落する。