
ナチス・ドイツの降伏文書は、実は2回署名されていた。なぜだろうか?

なぜナチス・ドイツの降伏文書は2回署名されたのか?
最初の署名は、5月7日午前2時41分、ランスで行われた。ドイツを代表してアルフレート・ヨードル陸軍大将が署名した。西側連合国側は、アメリカのウォルター・ベデル=スミス将軍、ソ連側は、西側連合国本部代表のイワン・ススロパロフ少将が署名したが、実は、ススロパロフ少将は困難な状況に陥っていた。

ススロパロフには単純に…そのような文書に署名する権限がなかった。しかし米国は譲らなかった。彼らは、戦争をできるだけ早く終わらせたいと考えており、式典のわずか数時間前に既成事実をススロパロフに突き付けた格好となった。将軍は、モスクワにその後の対応について尋ねたが、技術的な問題で、回答を得ることができなかった。

さりとて、ススロパロフは拒否することもできなかった。署名しなければ、ソ連は、単独でナチスと戦い続けなければならず、そうなれば、ソ連軍の損失はさらに増大するだろう…。そこで、彼は、この文書に代わる新たな文書に署名する可能性に関する条項を盛り込むことを主張し、それによりこの状況を打開した。
後に将軍は、クレムリンがこの文書への署名を断固として禁じていたことを知った。ソ連の指導者ヨシフ・スターリンは、調印式をもっと盛大なものにしたいと考えていた。「ファシストの侵略の源」であるベルリンで、ヒトラーと戦ってきた連合諸国の最高司令部が参加して行われることを望んでいたのだ。

連合国は、ランスでの式典を「暫定的な降伏」とみなすことに同意し、5月8日(モスクワ時間5月9日)、ベルリンのカールスホルスト地区で、2度目の調印式を行った。ススロパロフに対しては、モスクワで彼の行動に対する不満が示されたが、何ら重大な措置は取られなかった。