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ソ連の「労働者クラブ」誕生の背景は何だったか(写真特集)
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ロシア革命後数年間は、社会と政治が大きく混乱した時代だったが、同時に文化の隆盛と、新しいソビエトの生活に対する大衆の熱狂も見られた。
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ソビエト連邦の理念を信じ、革命後ボリシェヴィキを支持した数百万人が、新しい社会の建設を熱望していた。
この非常に野心的な目的を達成するには、人々を何かに没頭させつつ、一定の型の個人を育てるのに役立つ社会機構が必要だった。その答えとなったのが、国家が推進した「労働者クラブ」だ。
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ロシア革命から間もなく、ソ連国民が暮らすあらゆる場所にコンパクトな「労働者クラブ」という文化センターが建てられた。各市町村に労働者クラブがあった。
1920年、労働者クラブの主たる社会的機能が定まった。演劇クラブや博物館事業、大衆向けの音楽、美術、体育、スポーツ教育の発展の促進だ。
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標準的な労働者クラブには、しばしば劇場や映画館、図書館があり、大人も子供も参加できる社会・文化教育活動や体験教室も開かれた。時にはダンスホールや種々のスポーツに対応した体育館もあった。総じて、この施設は労働者が仕事の後にレクリエーションをし、互いに交流し、学習できる場だった。
ソ連の労働者クラブはソビエト国家と密接に連携していた。当局はこの大人気の社会施設を利用して、新生ソビエト政府の理念に身を捧げる人民の育成を図った。労働者クラブの設立の目的は、先述のように、労働者たる一般大衆を文化的かつ積極的で政治リテラシーのある献身的な共産主義者にすることだった。
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初期ソビエト国家の指導者ウラジーミル・レーニンは、ある工場の職員に宛てた1922年11月7日付の手紙で労働者にこう語りかけている。「本日、革命5周年のこの日、私は特別な喜びを持ってあなた方のクラブの開設を歓迎する。あなた方、国営発電所の労働者と従業員の皆が、(…)このクラブを労働者教育の最重要拠点の一つにすることを望む」。
ソビエト時代初期、労働者クラブは革命後に機能を失った邸宅や教会などの建物を利用して作られた。小さな町村や遠隔地の町村では小屋を労働者クラブにするだけで十分だったが、ソ連の全工業力が集中していた大都市にはたくさんの労働者クラブが必要だった。そのため、特に大きな労働者クラブが個別の工場やメーカーの付属施設として建てられることもあった。
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こうした場合、建物の規模は、たいてい宣言された目標の壮大な規模に実際に適うものだった。労働者会館は、極めて贅沢で、新しいソビエト国家の先駆的な精神を象徴していた。
実は、地方から都市部に流入した労働者がレクリエーションをし、交流し、学習できる場所を作るという構想の発案者はソビエト政府ではなかった。最初に労働者会館(当時は「民衆会館」と呼ばれていた)を作ったのは革命前のツァーリ政府だった。この政策の背景にあったのは、急速に成長する工業都市の新しい住人を何かに没頭させて懐柔・教化することだった。彼らの存在によって公共の安全が脅かされないようにするためだ。
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ヴヴェデンスキー民衆会館は、モスクワに建てられたそうした建物の一つだった。帝政期の1903年にモスクワの工業地帯近郊に作られた。施設に付属する劇場では、シェイクスピアやオストロフスキー、チェーホフの劇が公演された。
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モスクワのルサコフ労働者クラブは1929年に公共事業職員連合用に建設された。建物から突き出た大きな突出部が特徴だ。
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労働者クラブの中には「文化宮殿」と呼ばれるものもあった。この「文化宮殿」は、ジル工場の労働者用に1931年にモスクワに建てられたものだ。
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これはレニングラード(現サンクトペテルブルク)の労働者クラブの一例だ。1920年代後半に建てられた。
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かつて労働者クラブが入っていた建物の多くは現在でもその機能を保っており、劇場や博物館、文化会館などの施設として利用されている。