ソ連のドルジンニキとは何者?

アレクサンダー・センツォフ / TASS
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多くのソ連市民が警察を補助し、町の秩序維持にたずさわった。無料の奉仕活動である。

 市民の志願による秩序維持協力は、帝政時代に始まった。だが「志願制人民パトロール」が明確な目的を持った独自の組織としてのステータスを得るのは、ソ連時代になってからである。

警察協力班

 内戦後のネップの時代、ソ連は街頭犯罪の急増に悩まされた。この時、警察の人員不足を補ったのが、民間の奉仕活動だった。

K.クズネツォフ/MAMM/MDF/russiainphoto.ru
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 市民による初の警察協力組織が発足したのは1920年代。志願者は武装し、治安を乱す者を拘束できた。実際、警察の予備人員としての側面もあった。

 1930年代になると、警察協力組織には5万人近くが入隊した。

 やがて、これらの組織は警察協力班として再編され、活動も法的に管理されるようになった。彼らは不法行為を取り締まるのみならず、スパイや反ソ分子の摘発も業務内容に含まれた。ただし、武器は支給されなかった。

イワン・シャギン/MAMM/MDF/russiainphoto.ru
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 協力班には地元の工場の労働者が、労働組合やコムソモールの推薦で受け入れられるのが一般的だった。

 協力班が犯罪を目撃した場合、直ちに警察に通報し、到着まで現場を警備することが求められた。だが、協力班が違反者と格闘に発展する場面も見られた。

 協力班は定期市の警備のほか、緊急事態時に地元住民の支援も行った。

 大祖国戦争勃発まで、ソ連にはおよそ40万人の協力班員がいた。戦時中はその多くが前線に赴き、市町村に残った者は治安維持のために再編され、敵の破壊工作対策に投入されている。

「志願制人民ドルジーナ」

ヴァレリー・シュストフ / Sputnik
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 戦後のソ連指導部は、ソ連人民の道徳心を重視するようになる。

 1950年代半ば、ニキータ・フルシチョフは共産主義と全人民国家を指針とした。粗暴犯は再教育、若者相手には説諭が行われた。西側のファッションを真似る、いわゆるスチリャーギも規制の対象となった。

ヴァレンティン・フフライェフ/Lumiere Gallery/russiainphoto.ru
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 警察協力班は1958年まで存在し、「志願制人民ドルジーナ」に置き換えられた。

 その頃、都市部には約1万5千人のドルジンニキ(ドルジーナ員)がいた。

 ドルジーナ活動(人民パトロール)は、ソ連共産党中央委員会と閣僚会議の決議「労働者の参加による公共秩序の維持について」によって活動が全ソ連規模で制定された、1959年3月2日が公式の発足日とされている。

K. イヴァシチェンコ / Sputnik
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パトロールの実際

 このような人民パトロールは、工場の労働者から編成された。

 ドルジーナ員(ドルジンニキ)は警察署で指導を受け、町の特定の地域ごとに4~5人のグループでパトロールに従事した。全員が目立つ腕章をつけ、ドルジーナ員の証明書を携帯した。

ヴセヴォロド・タラセヴィチ/MAMM/MDF/russiainphoto.ru
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 パトロール活動自体に報酬は支払われなかったが、奨励のために各種の特典があった。代休を出す工場もあれば、サナトリウムの無料利用券を出すところもあり、報奨金が出るケースもあった。

 活動は次第に拡大して大規模になり、人民パトロール員は1980年代半ばのピーク時には1300万人を数えるまでになった。だがペレストロイカ期に次第に下火となり、ソ連崩壊とともに消滅した。

ヴセヴォロド・タラセヴィチ / Sputnik
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 現在のロシアでは、一部地域でコサック・パトロールや学生団体が秩序維持組織として存在している。

パヴェル・スハレフ
パヴェル・スハレフ
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