モスクワの最も美しい古建築(写真特集)
円柱の美しい白亜の宮殿がモスクワのど真ん中に現れたのは1786年のこと。その最初の所有者ピョートル・パシュコフについては、あまり詳しく分かっていない。彼の父はピョートル1世の従卒で、自身は酒税の徴収の従事しており、モスクワでは「ウォッカ王」と呼ばれていた。また、莫大な遺産を相続していたという。
パシュコフはこの邸宅を、高名な建築家ワシリー・バジェーノフに発注したとされる。実際に誰が設計したのか、確実には分かっていない。しかし歴史家の間では、バジェーノフの設計というのが定説となっている。
パジェーノフはこの邸宅を手掛ける直前、エカテリーナ2世のためにツァリーツィノの宮殿を建てているが、女帝はこれを酷評し、大部分を解体させた。バジェーノフは女帝への当て擦りに、わざわざパシュコフ邸をクレムリンに背を向けるように設計したという話が伝わっている。実際、メインエントランスは建物の反対側にあるが、小高い丘の上という立地のため、単に最も出入りに適した場所を選んだだけという可能性もある。
パシュコフ邸は3年間という短期で完成したが、パシュコフ自身は殆どここで暮らせなかった。酒類の調達に関して莫大な罰金を科せられて破産寸前となり、さらに健康問題も重なったため、借金の支払いを条件にパシュコフは従兄弟に邸宅を譲っている。
ナポレオンとの戦争の最中の1812年、モスクワは大火に見舞われ、大部分の建物が焼失した。パシュコフ邸も大きな被害を受けた、展望室、あずまや、彫像が失われ、内装も損傷した。しかし、全壊を免れた数少ない建築の1つだった。当時すでにモスクワの名所の1つとなっていたこともあり、公金で補修が行われた。補修作業を指揮したのは、高名な建築家のオシップ・ボーヴェであった。
1818年、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世がモスクワを訪れた。王は高所からモスクワを見たいと所望し、そのための場所としてパシュコフ邸が選ばれた。プロイセン使節に随行したパヴェル・キセリョフ伯爵は、「あの木のように感情に乏しい人物が、目に涙を浮かべて、これが我々の救世主だ!と何度も繰り返した」と、回想録に書いている。画家ニコライ・マトヴェーエフは、プロイセン王が膝立ちになってナポレオン戦争におけるロシアの功績を讃えた場面を描いている。
パシュコフの後継者たちは当時、このような豪華な邸宅を維持するだけの財力が無く、パシュコフ邸はモスクワ市が買い上げて、モスクワ大学が使用した。
1862年には、モスクワで一般に公開された初の博物館であるルミャンツェフ博物館が、パシュコフ邸でオープンした。ニコライ・ルミャンツェフ伯爵が収集した約2万8千点の文書、書籍、古地図などが保管された。ルミャンツェフ伯爵は文化と芸術に造詣が深く、その膨大なコレクションを「祖国の為に役立てるべく」遺贈した。
1917年の革命後、ルミャンツェフ博物館の所蔵品の多くは他の博物館に移され、パシュコフ邸には図書館のみが残された。1925年には名称がウラジーミル・レーニン記念図書館に改められた。数年後には付近に新たに本館が建てられ、蔵書の大部分が移された。
現在、パシュコフ邸には楽譜部門、手稿部門、地図作成部門が残っている。見学ツアーに申し込めば誰でも内部が見られ、利用者登録をすれば図書館も利用できる。