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イーゴリ・グラバリの主要作品10点
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イリヤ・レーピンの弟子で、帝国美術アカデミーを卒業したグラバリは、1896年、ヨーロッパに留学し、アントン・アズベのアトリエで学んだ。ロシアに帰国してからはモスクワを拠点にし、モダニズム集団「芸術界」に参加、1902年、画家同盟の展覧会に10作品を出展した。そのうちの一つである「陽光」をトレチャコフ美術館が購入した。
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グラバリはモスクワ郊外のドゥギノに住む友人のニコライ・メシェリンのもとをよく訪ねた。二人は近隣の村にスケッチを描きに行ったが、そのときの御者はときに彼らの作品のモデルとなった。たとえば、ミシュートカであるが、表情から、長いことポーズを取らされ、あまりご機嫌でなかったことが窺える。
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ドゥギノで作品を描くとき、グラバリは朝早く起きて、スケッチに出かけた。あるとき、自然光の中で移りゆく瞬間を捉えようと白樺を眺めていてグラバリは、手に持っていた棒を落としてしまった。そして上を見上げた瞬間、グラバリは「虹のすべての色が溢れている」のを見たのである。冬の青空を背景に木が白く光り、枝はまるでダンスをしながら、新しい色彩を生み出していた。その角度をそのまま絵にしようと、グラバリは雪に穴を掘り、そこから作品を描いた。
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1905年にパリを訪れたグラバリはヴァン・ゴッホの作品の研究に熱心に取り組んだ。文字通り、ゴッホの信じられないようなテクニックに魅了され、作品へのアプローチを変えた。その結果、「春風」は、ゴッホの「アルルの寝室」を思い起こさせるものとなっている。伝説の芸術パトロンのイワン・モロゾフが自身のコレクションのために購入した。
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多巻物の「ロシア芸術史」の執筆にグラバリは夢中になり、記録資料を探すために国じゅうを旅した。1908年から1915年にかけて8巻が出版されたが、それはロシアの芸術学にとってきわめて重要な書物となった。
1913年、グラバリはトレチャコフ美術館の学芸員となり、展示物の大々的な配置換えなどを行った。1915年に開かれた「芸術の世界」の展覧会で、イーゴリ・グラバリは静物画「青いテーブルクロスの上の梨」を出品し、これを芸術アカデミーが、自らが所有する美術館のために購入した。
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1920年代、グラバリは作家のマクシム・ゴーリキーとともに、画家たちが生活しながら、創作活動を行うことができる「画家の町」の建設を提案した。そして、モスクワのヴェルフニャヤ・マスロフカの映画スタジオの火災跡地にアトリエとアパートを備えた家が造られた。グラバリも、そのうちの一つに住んだ。
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革命後、古代ロシアやヴィザンツ芸術の記念物を保存することができたのはグラバリによるところが大きい。1918年、グラバリの提案で、文化遺産の保存を行う最初の組織である中央修復工房が作られた。1920年代には、アメリカやドイツを含む諸外国でいくつものロシア芸術展を開いた。1930年代になり、彼はすべての役職を離れ、絵画に打ち込んだ。その時期に描いたのが、肖像画シリーズであった。グラバリは肖像画を高尚な芸術ジャンルだと考えていた。
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1930年代末、グラバリは偉大な師であるイリヤ・レーピンをテーマにしたモノグラフに集中した。また時を同じくして、「我が人生」という自伝が出版された。グラバリはこの中で、芸術は自身にとっての唯一の喜びと悲しみの源であり、真の人生の意味だと打ち明けている。そして、繰り返し、繰り返し、大好きな主題である白樺の木を、夏の自然、冬の自然を背景に描き続けた。
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まだ1930年代に、有名なモスクワ郊外の屋敷「アブラムツェヴォ」の向かいに、画家村が生まれた。イーゴリ・グラバリが、自身のダーチャ(サマーハウス)に自身の設計によるフィンランド・モダニズムスタイルの離れを作ったのである。ここで、グラバリは「ロシア芸術史」に関する作品作りや執筆活動を行った。そして後には、「アブラムツェヴォ」博物館の館長になった。
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1940年代末になると、グラバリは古代のモスクワの修道院であるアンドロニコフ修道院の改修とアンドレイ・ルブリョフを記念した古代ロシア芸術美術館の開設に取り組んだ。他でもないここでルブリョフは僧侶としてスパスキー聖堂の壁画を描き、1428年に葬られたのである。この頃になると、グラバリは印象派から少し距離をおいていたが、やはりまたそこに戻ろうとした。この風景画は「春まであと5秒」というときに描かれたもので、初期の作品を思わせる作風となっている。明るく晴れた空に雲が流れ、新たなものの予感と古いものとの別れを感じさせる。