なぜトルストイは家出したのか?

ロシア・ナビ (Photo: Digr; Public domain)
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1910年11月10日深夜、82歳のレフ・トルストイは妻に隠れて家出し、そのまま、遠く離れた場所で死去した。一体、何が起きたのか?

 家出の意向はかなり以前から固まりつつあった。老トルストイの生活は、まったく理想と程遠いものになっていた。彼は世間から離れ、素朴な人々に囲まれて、質素かつ静かに暮らす事を夢見ていた。手仕事で食い扶持を稼ぎ、穏やかに談話し、誰の重荷にもなりたくなかった。しかし、生まれながらの貴族にして、大作家であり、大家族の長であり、屋敷の主としての立場は重くのしかかり、自らの生き方を選択する余地はなく、その環境にあって惰性で生きざるを得なかった。

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パブリシティの犠牲

 老トルストイはロシア史上初の、現代の最も俗な意味での大スターになってしまっていた。一挙手一投足を記者が注視し、家には請願者が列をなし、招かざる客や、ファンが押し寄せ、山のように手紙が届く。そして最悪なのは、親族や友人たち、同志や助手たちが引き裂かれることだった。

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 トルストイはロシアで初めての、無数の視線に晒されて生きるという、ステータスの犠牲者であった。精神的な葛藤も、身体の不調も、妻との衝突も、何もかも記者の知るところとなった。友人や親族たちは書いた日記を互いに見せ合い、回し読みし、話題にし、世間に広めていた。

 社会的な不公正にひどく心を痛めていたトルストイは、1894年に土地を放棄し、1881年以降に出版された著作からの収入も拒否した。1881年は、トルストイ自身の世界観に大きな転換が訪れた年である。

 トルストイ自身によれば、彼の遁世はまさにその社会的な、ヤースナヤ・ポリャーナにおける貴族としての立場の耐え難さによるものだった。貧困の蔓延する中、自分は屋敷に住み、召使が食事の世話をしてくれるという立場。

獲らぬ作家の皮算用

 しかし最もトルストイを消耗させたのは、妻や同志たちを相手にした、創作の遺産をめぐる苛烈にして無意味な争いだった。

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 ごく一部を除き、親族はまるでトルストイが既にこの世にいないかのように振舞った。回顧録に描かれるポジションを競い、日記や原稿を求めて争い、或いは日記に修正を加え、遺産に群がった。この騒動の両極にいたのは妻のソフィヤ・アンドレーエヴナと、トルストイの友人にして秘書のヴラジーミル・チェルトコフだった。

 温和で礼儀正しく、思慮深いトルストイは、両者の間で揺れ動いた。妻が求めるまま友人と暫く会わなかったかと思うと、友人のすすめるままに、妻に隠れて遺書を用意した。そしてその後は後悔に苛まれて自らを責め、妻も友人も、誰もが苦悶した。

妻の不満

 ソフィヤ・アンドレーエヴナについて、老境に入ってその理性が曇ったと非難できるだろうか?妊娠は19回、13人の子供のうち6人は幼くして死んだ。しかも天才の傍らで生活し、彼の恐ろしく高い理想に合わせ、嫌なことは許し、家事と仕事に勤しまねばならなかった。

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 一方、家庭内で居場所を失いつつあった老作家の静かな不幸は、メディアにとっては格好の題材であった。

 世話と助けを必要とする筈の82歳の老人が、暗い秋の夜にほぼ無一文で密かに家を出たこと、以後は手紙にも「T.ニコラエフ」と署名すると信頼できる人に告げたこと、いずれも、彼の境遇がいかに苦しかったかを物語る。静かな場所に身を隠し、孤独のうちに世間と神に対する自らの複雑な関係性を見つめ直し、人生最大の出来事たる死を迎える準備をしたかった。しかしどこにも、そのような場所は無かった。

静かに死ぬために

 ヤースナヤ・ポリャーナを去るやいなや、通行人、食堂の店員、鉄道員など、人々は彼に気付き始めた。彼のルートも明らかになり、記者たちがその後を追った。トルストイは短い間、修道女である妹がいるシャモールジノ修道院に滞在し、しばしの休息を得た。オプチナ修道院の長老イオシフとの面会を望んだが、果たせなかった。修道院で暮らすという希望も叶わなかった。

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 寄る辺なきトルストイは憂鬱に追い立てられるように、再び旅に出た。すでに風邪をひいて体調は優れず、目的地も不明だった。オデッサに行き、そこからコンスタンチノープルへ向かおうともしたが、道中、高熱と衰弱に見舞われてアスターポヴォ駅で下車、駅長が親切にも自らの宿舎を提供してくれなかったら、トルストイは死に場所も見つけられなかっただろう、と、後にマコヴィツキー医師は語っている。

 そして新聞は、偉大な人間の偉大な死を、その行動の象徴的な意味を大々的に報じた。全ロシアが戦慄と感激とともに注目し、一方屋敷では妻が悲しみに暮れ、どうすれば良いか分からない子供たちが打ちひしがれていた。

 トルストイはただ1つ、そっとしておいて欲しいと願った。薬もモルヒネもいらない、放っておいてくれ、と。彼はそのまま、遠く離れた駅で、カメラの注視する中で息を引き取った。

 以上は、『ルースキイ・ミール』誌の記事の抜粋である。ロシア語の全文はリンク先を参照

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