ロシア文学史を代表する共同執筆の作家5選
イリヤ・イリフとエヴゲニー・ペトロフ
もっとも輝かしい作家タッグの1つだろう。2人とも出身はオデッサだが、出会ったのは1920年代のモスクワ、新聞「グドク」紙の編集部でのことだった。エヴゲニー・ペトロフの兄ヴァレンティン・カターエフは、当時すでに名のある作家だった。彼は記者だった若い2人に、自分のゴーストライターとなることを提案した。カターエフの提供した小説のアイディアは、椅子に縫い込まれたダイヤモンドの捜索というテーマで、2人は文章を書き、これをカターエフが校正する予定だった。
ところが、出来上がった小説『十二の椅子』(1928年)を読んだ時、カターエフは校正の必要が無いことを確信した。独創的かつユーモラスで完成された作品に仕上がっていたのである。そしてカターエフは、実際に執筆した2人の名で作品を発表するよう促した。
イリフ=ペトロフのタッグは10年間の創作活動の間に、それほど多くの大作を世に出したわけではないものの、彼らの作品は傑作揃いだった。1931年の『黄金の子牛』は『十二の椅子』の続編で、主人公オスタップ・ベンデルの冒険を描いて前作同様のヒットとなった。『一階建てのアメリカ』(1936年)はアメリカを旅したドキュメンタリーで、軽妙なユーモアと仔細な観察眼が光る。タッグによる創作活動は1937年、イリヤ・イリフが結核の悪化によって死去したことで終わりを迎えた。
アルカージーとボリスのストルガツキー兄弟
社会派SFの大御所タッグは、発行部数4000万超を誇る。2人は実の兄弟でありながら、気質も考え方も全く異なっていた。
兄のアルカージーは翻訳家で、戦前から執筆活動をしていた。弟のボリスは天文学を専攻し、こちらも文学に挑戦していた。2人の共同執筆のきっかけとなったのは、賭けであった。回想によると、アルカージーの妻エレーナを相手に、2人で上質なSF作品を書き上げてみせると、スパークリングワインを賭けたという。こうして1957年に共同執筆による最初の作品、中編の『赤い雲の国』が生まれた。
驚くべきことに、兄弟は活動期間の大部分を別々の街で過ごした。アルカージーはモスクワで、ボリスはレニングラード(現サンクトペテルブルク)で暮らしていた。この距離が、2人の執筆メソッドの特色となった。彼らは作家向けの保養施設(コマロヴォ、レーピノ、ガグラなど)や、レニングラードの両親に家に集って仕事をした。それぞれの都市にいる間は、頻繁に手紙のやりとりをしていた。
イリフ=ペトロフ同様、ストルガツキー兄弟もフレーズの1つ1つを、両者ともに納得するまで検討した。2人は気質も役割も異なった。アルカージーはより感情的な性質で、アイディアを練り、会話を書いた。ヘミングウェイやブルガーコフを愛読したことに加え、翻訳家としての経験(英語と日本語に堪能だった)も、その文体を豊かにした。
一方のボリスは学術的な正確性を担保し、文章にアイロニーや哲学的な深さ、そして一貫性を付与した。1991年にアルカージーが死去する。2人の間には、どちらかが単独で作品を発表する際はペンネームを用いるという取り決めがあった。兄の死後、ボリスはS.ヴィチツキーという筆名を用いた。
アルカージーとゲオルギーのワイネル兄弟
取調官としての経験と、ジャーナリストの筆力が合体した、ソ連推理小説界の大家である。彼らはスリルに満ちた作品と、記憶に残る生き生きとした多くのキャラクターを生み出した。
ストルガツキー兄弟と同様、ワイネル兄弟の執筆活動も賭けからスタートした。1967年に共通の知人が、推理小説を書けるかどうか、2人に賭けを持ちかけた。当時、アルカージーはモスクワ刑事局で10年以上のキャリアがあり、捜査課長になっていた。兄弟は、自分たちが扱った実際の刑事事件に題材をとることにした。ほどなくして、「ソ連警察」と「同時代人」の2誌で中編『Mr.ケリーの時計』が発表された。
執筆作業は、細部に至るまでの入念なプランの打ち合せから始まる。ワイネル兄弟の成功の秘訣は、それぞれの分野に秀でた2人が理想的な形で補い合ったことだった。刑事局でのキャリアのおかげで、アルカージーは警察の事情にも、捜査官や犯人の心理にも精通していた。彼は作品のリアリティと正確性を担っていた。ジャーナリストだったゲオルギーは、テキストを文学的に再構成した。
ワイネル兄弟は共同で150以上の作品を発表し、映画の脚本も22本を手掛けた。代表作の『恩恵の時代』(1975年)は大ベストセラーとなり、映画『待合せ場所を変えてはならない(Место встречи изменить нельзя)』(1979)の土台となった。共同執筆は約30年間続いたが、1990年にゲオルギーが米国に移住してジャーナリストとして活動し始めると、共同での創作は困難になった。
コジマ・プルトコフ
ロシア文学史上、最も痛快な偽名エピソードだろう。これはただのペンネームではない。架空の作家がその経歴と気質、さらには肖像画に至るまでゼロから創造されたのだ。
コジマ・ペトロヴィチ・プルトコフは、才能豊かな俊英たち、すなわちアレクセイ・コンスタンチノヴィチ・トルストイ伯爵と、機知に富んだ若い貴族のアレクセイとヴラジーミル・ジェムチュジニコフ兄弟の3人による共同作品である。後に作家像が確立すると、時に他の作家も執筆に加わった。
全ての始まりは、ただの冗談だった。1851年の夏、ジェムチュジニコフ兄弟の領地で若者たちが寓話のパロディ作りを楽しんでいた。そして、それを架空の1人の作者名で公表するというアイディアに至り、生まれたのが、コジマ・プルトコフである。名は、ジェムチュジニコフ兄弟の近侍から拝借し、近侍は謝礼として50ルーブルを貰った。プルトコフは詳細な経歴も設定され、生年月日と出生地、騎兵連隊での軍歴、官位、そして脳溢血による死まで創作された。
プルトコフ名義で発表された作品は、詩、寓話、警句(その多くは広く人口に膾炙した)、戯曲など、幅広いジャンルにわたる。
ソ連の作家25名
ロシア文学史上、他に類を見ない実験的作品がある。『大火事』(1927年)は「オゴニョーク」誌の編集部が発案した作品で、1つの小説を25人の作家が書いたのだ。それぞれの作家が前章を引き継いで1章ずつ担当する。
舞台は1920年代。ズラトゴルスク市にて連続して原因不明の火災が発生する。地元新聞のベルロガ記者は、裁判所のしがない書記である知人のヴァルヴィー・ミグノフとともに事件の真相究明に挑む。
実験的な連作小説の執筆には25人の作家が参加した。その中にはアレクサンドル・グリーン、イサーク・バーベリ、ミハイル・ゾーシチェンコ、アレクセイ・トルストイ、ヴェニアミン・カヴェーリンらの名もあった。作品は傑作とはならなかったものの、1920年代の文学史を彩る一作となって歴史に残った。
1927年の「オゴニョーク」誌に毎号連載された。批評家や文学研究家は本作を、冒険、探偵、スパイ、空想科学、風刺など様々なジャンルが混ざった奇妙な作品と評している。