なぜロシアでは新年にオリビエ・サラダとミモザ・サラダを食べるのか?
オリビエ・サラダ、ミモザ・サラダ、ホロジェッツ、ミカン、スパークリングワイン。これが、ロシアと旧ソ連圏の大部分における、一般的な新年のごちそうメニューだ。はるか昔からそうだったように錯覚するが、実はこのレパートリーが成立したのは20世紀の半ばに過ぎない。お祝いの世俗化志向、モノ不足、市井の人々の創意工夫が組み合わさって生まれたものなのだ。
革命前の新年メニュー
1917年まで、新年はクリスマスと比べると重要度の低いお祝いだった。したがって、新年のお祝いと固く結びついたメニューは存在しなかった。しかし、モスクワやペテルブルグの富裕層の間では、夕方からお祝いの席をもうけるのが流行った。輸入品の牡蠣、高級フルーツ、凝った前菜、リュシアン・オリビエ作の有名なオリビエ・サラダ(エゾライチョウ、エビ、プロヴァンス風ドレッシングを使った、本来の調理法のもの)などが並んだ。
革命後、ボリシェヴィキは過去の負の遺産とされるものを放逐し始めた。クリスマスも、「ブルジョアな」新年祝いも禁止される。ソ連に世俗的で家庭的な冬のお祝いが誕生したのは、ようやく1930年代になってから。子供向けの「ヨールカ祭り」が開催され、大人向けには新年メニューの提案がなされた。レシピの多くは、ソ連の代表的レシピ本『健康でおいしい食事の本』に掲載された。この本は、帝政ロシアの優雅な料理文化をソ連のものとして再録したものである。だが新年メニューに本格的な変化が訪れたのは、戦後になってからだ。
「毛皮を着たニシン」の原型となったのは、おそらく、モスクワのレストラン「ロシア」で提供されていた、マスとビートとプロヴァンス風ドレッシングで作りアンチョビを添えた前菜であったと思われる。この一品はアレクサンドル3世の戴冠式で提供された。後に具材がより安価なニシンに変わって、庶民の口にも入るようになった。しかし、異説もある。モスクワの料理店主アナスタス・ボゴミロフが、客が政治論議で喧嘩に発展しないよう、「赤い」具材と「白い」具材を組み合わせたのが、この「プロレタリア」フードの発祥だという。
ブルジョアなオリビエ・サラダでは、エゾライチョウの肉をソーセージで、ケッパーは缶詰のグリンピース、プロヴァンス風ドレッシングはマヨネーズでそれぞれ代替された。こうして、もっとも国民的なサラダが出来上がったのである。
手の届く贅沢
ソ連時代、新年は最も重要な家庭の祝日だった。そのため、人々はできるだけベストなメニューをテーブルに並べたがった。
1960年代、新年のメニューにミカンが加わる。ミカンを積んだ最初の貨物船がモロッコからソ連に到着したのは1963年のことで、ちょうど年末だった。その時期としてはほぼ唯一の、新鮮かつ手頃と言える価格のフルーツだった。そうした事情もあって、ミカンはたちまちソ連の食で一定の地位を占めたのである。
もう1つ、新年もののサラダが「ミモザ・サラダ」である。考案者は定かではないが、1970年代に雑誌や新聞にレシピが掲載されて一気に広まったことは確かだ。人気の要因は、他の新年用サラダと同様、魚の缶詰、卵、ニンジン、マヨネーズといったシンプルかつ食べ応えのある具材で作れることだった。
そしてもちろん、誰もが備えておきたかったのが、「ソビエツコエ・シャンパンスコエ(ソビエトのシャンパン)」だ。このロシア製スパークリングワインは19世紀から製造されてきたが、1930年代半ばにソ連の学者たちがスパークリング工程の短縮化に成功したことで、比較的安価でお祝い事に相応しい飲み物となった。
映画の影響
新年メニューには、テレビの影響も少なからずあった。ソ連の人々がスパークリングワインとフルーツが並ぶごちそうを初めて見たのは1956年、映画『祝賀の夜』(旧邦題『すべてを5分で』の中である。
新年のごちそうの定番は、映画『運命の皮肉、あるいはいい湯を!』にも登場する。ミカン、スパークリングワイン、サラダ各種、ハム、魚の煮凝りまである。
そして、1962年から毎年大晦日に放映された伝統のTVショー『ゴルボイ・オゴニョーク(青い灯)』も忘れてはならない。
その他、ペルミからスモレンスクからハバロフスクまで、ソ連のあらゆる都市で、雑誌に掲載された様々なレシピをもとに料理された品々が並んだ。
こうしてソ連全土で次第に新年のごちそうメニューが形成されて定番化していき、現在まで受け継がれているのである。