ピョートル1世はロシア文字をどのように改革したのか
ピョートル1世以前のロシアでは、どのような書体が使われていたのか
1563~1564年、イワン・フョードロフとピョートル・ムスチスラヴェツは、ロシア初の印刷書『使徒行伝』を刊行した。この本の活字は、「ポルウスタフ体(半アンシャル体)」を手本として鋳造された。当時、こうしたキリル文字の書体は、あらゆる教会書で用いられていた。
『使徒行伝』——ロシア史上初の印刷本。
印刷用のポルウスタフ体は、手書きのポルウスタフ体の外見的特徴を受け継いでいた。文字の形にはかなり古風なものが残り、教会スラヴ語の書物の伝統から継承された上付き記号の体系も用いられていた。
なぜ新しい書体が必要だったのか
印刷用のポルウスタフ体は、その前身である手書き文字に比べれば、より標準化され、活版印刷にも適したものだった。しかし、大きな欠点があった。
従来の書体は、ピョートル1世がほかの印刷設備とともに購入したオランダ製の印刷機で使用するには不便だったのである。
しかし、新しい書体が生まれた理由は、印刷上の利便性だけではない。当時のロシアでは、ラテン文字を含め、ヨーロッパ的なものすべてが流行していた。
こうして新しい「民用書体」、通称「グラジュダンカ」が導入されたことで、ロシア文字は西ヨーロッパの印刷文字に近づいた。ただし、キリル文字そのものを捨てることはせず、最終的には両者の折衷的な形に落ち着いた。
「民用書体」は誰が、どのように作ったのか
1707年、新しいアルファベットの字形を描いたのは、軍事要塞技師で製図家・画家でもあったクーレンバフだ。彼はピョートル自身のスケッチをもとに作業したと考えられている。
ピョートル1世が自ら修正を加えたアルファベットの校正刷りも現存している。そこには、どの文字を残すべきか、どの文字の形を変えるべきか、そしてどの文字を完全に廃止すべきかが、皇帝自身によって書き込まれている。
ピョートルによるアルファベット改革。
クーレンバフは、32の小文字と4つの大文字(А、Д、Е、Т)の字形を作成した。
当初、ピョートルはオランダ人の職人をロシアに招き、新しい書体を作らせ、ヨーロッパ式の印刷体制を整えたうえで、その技術をロシア人職人に教えさせようと考えていた。
しかし、それには多額の費用がかかることが分かった。そこで、ロシアで作成した見本をもとに、印刷用の母型と活字製造用の器具をアムステルダムに発注した。そしてすべてが完成すると、オランダの印刷職人たちがモスクワを訪れ、印刷作業の体制を整えた。
何が変わったのか?
民用書体に含まれる文字数は、その版によって異なっていた。当初、皇帝は Ꙁ(ゼロ)、Ѡ(オメガ)、Ѿ(Ѡ「オメガ」とТ「テー」を組み合わせた合字「オト」)、Ѯ(クシー)、Ѱ(プシー)、Ѳ(フィータ)、Ѵ(イジツァ)といった文字を完全に廃止しようとしていた。
しかし、伝統とのこれほど急激な断絶が、書記や聖職者たちの反発を招かないはずはなかった。そのため、最終版では、ギリシャ語からの借用語をより正確に表記するため、Ѯ、Ѳ、Ѵの文字が残された。
いくつかの文字だけでなく、上付き記号や略記符号も姿を消した。
数字の表記も変わった。ギリシャの伝統に従って文字で数を表していたスラヴ式数字に代わり、現在私たちが使っているアラビア数字が導入されたのである。
句読点も導入され、それまでポルウスタフ体の文章では段落の冒頭にしか使われなかった大文字が、文の始まりを示すためにも用いられるようになった。また、長い単語を行末で分割する際には、ハイフンが使われるようになった。
民用書体導入の作業をアレクセイ・ムーシン=プーシキンとともに監督していたマトヴェイ・ガガーリン公に宛てた書簡の中で、ピョートル1世は、試し刷りとして「その文字で何か祈祷文を、少なくとも『主の祈り』でもよいから」印刷するよう求めている。
しかし、民用書体を使って最初に印刷された出版物は、1708年の『幾何学、すなわちスラヴ語による測地術』であった。ピョートル1世の治世中には、民用書体を用いた書籍が400冊以上刊行された。
その後も書体の修正は、試行錯誤を重ねながらおよそ100年間続いた。新しい字形が登場しては、再び古い字形に戻されることもあった。
新しい書体はどこで使われたのか
ピョートル1世が導入した書体が「民用書体」と呼ばれるのには理由がある。この文字改革の対象となったのは、法律や勅令、行政文書、教科書、科学・文学作品、定期刊行物など、世俗的な内容の文章だけだった。
一方、『福音書』『使徒行伝』『詩篇』『月課経(ミネヤ)』『奉神礼書』などの典礼書や、多くの宗教書は、この「文字の世俗化」の対象とはならず、引き続きポルウスタフ体で印刷された。
古いポルウスタフ体による筆記と印刷の伝統は、現在に至るまで古儀式派(分離派)によって守られている。
ロシアの民用書体は、やがてロシア国外にも広まった。19世紀には、南スラヴ諸民族であるセルビア人やブルガリア人もこれを取り入れ、古風な文字体系を捨てていった。
ブルガリアでは、ピョートル時代の書体にあった文字に加え、ѫ(「大ユス」)も使用されていた。この文字が廃止されたのは、1945年の正書法改革の時だ。
また1818年には、セルビアの言語学者ヴーク・カラジッチがセルビア語のキリル文字を改革し、アルファベットから18の「不要な」文字を取り除く一方、j、љ、њ、ћ、ђ、џを導入した。
*記事の完全版は、ロシア語で「Gramota.ru」に掲載されている。