GW2RU
GW2RU

1955年ソ連時代のロシアはどんな様子だったか(写真特集)

戦後10年が経過し、国は急速に復興しつつあった。スターリンはすでに亡くなっており、ニキータ・フルシチョフがソ連共産党中央委員会第一書記に就任。いわゆるフルシチョフの「雪解け」が起きた。

 1953年、ヨシフ・スターリンが死去し、形の上では、ゲオルギー・マレンコフが最高指導者となった(閣僚会議議長〈首相〉に就任)。しかし、舞台裏では、最高権力者の座をめぐって2年間にわたり、政争が続いていた。写真は、モスクワ州の政府別荘でのレセプションに出席する党幹部たち。そのなかには、ヴャチェスラフ・モロトフ、ニコライ・ブルガーニン、ニキータ・フルシチョフ、ラーザリ・カガノーヴィチ、そしてゲオルギー・マレンコフがいる。

 1955年、スターリンの死から続いてきたソ連の権力闘争は終結した。マレンコフとフルシチョフのコンビは解消され、フルシチョフが単独の最高指導者となった。  新第一書記は、ドイツ、ビルマ、インドを公式訪問した。写真は、カシミール地方の最高のもてなしの習慣で、お互いに食事を与えている。  続いて、ジャワハルラール・ネルーと、その娘インディラ・ガンジーも、ソ連を訪問した。  他の賓客として、1945年の第二次世界大戦末期に「エルベの誓い」に参加したアメリカ兵たちがいた。彼らは、戦勝10周年を記念してモスクワを訪れ、赤の広場とクレムリンを訪れた。   彼らは地下鉄にも乗った。写真はコムソモリスカヤ駅だ。   大祖国戦争終結から10年後、「勝利の元帥」、ゲオルギー・ジューコフが、再び軍事パレードに参加した。  モスクワが「五つの海の港」と呼ばれるのは偶然ではない。スターリンによって建設されたモスクワ・ヴォルガ運河は、重要な河川と海路を結んでいたからだ。写真は運河の閘門(こうもん)の一つだ。   スターリンが始めたもう一つのプロジェクト、モスクワの7つの高層ビル(通称「セブン・シスターズ」)のうちの1つ、ヴォスタニヤ広場(現在のクドリンスカヤ広場)の住宅ビルがちょうど完成したところだった。  1955年、レーニン丘(現在の「雀が丘」)で、ルジニキ・スポーツ複合施設の建設が始まった。かつてこの森林地帯は、モスクワ郊外と考えられていたが、今やスターリン様式の高層ビルの尖塔が見渡せるようになっていた。間もなくロシア最大のスタジアム、「ルジニキ・スタジアム」が建設されるだろう。  工業の美学:チェレポヴェツ冶金工場の平炉工場。   処女地開拓、集団農場、農業発展の加速は、戦後のソ連生活における主な優先事項だった。  ソ連では、とくに戦後、アマチュア芸術が盛んだった。大企業や研究所には、それぞれ独自の劇団や音楽サークルがあった。写真は、建設業者のダンス・サークルだ。  こちらは、工場「赤い職工」のダンサーたち。  こうしたグループは国際的なコンテストやフェスティバルにも出演し、ポップフォークダンスは人気を博した。  バレエは依然として主要な芸術の一つだった。写真は、ボリショイ劇場で上演された『白鳥の湖』。  演劇やアマチュア公演のほかに、サッカーも全国で観戦された。  ディナモ・スタジアムでのレース。  お気に入りの余暇の過ごし方:カフェ「モロージェノエ(アイスクリーム)」で会食する  ボリシェヴィキ政権は、クリスマスとクリスマスツリーを禁止したが、スターリンの治下で、子供たちのために、冬の祝日を復活させることを決め、贈り物やカーニバルの衣装をともなう正式な新年の祝日を導入した。1950年代には、これは、すべての大人にとっても人気の祝日となった。そして翌1956年には、カルト的な人気を誇る、新年の映画『カーニバルの夜』が公開される。  戦後、ようやく出生率は上昇し始めたが、働く女性たちは、仕事を続けるために、子供を幼い頃から託児所に預けざるを得なかった。  その後、子供は幼稚園に通い始める。そこにはすでに年長の子供たちがいた。写真は、幼稚園での冬の散歩の様子。  親は仕事があるため、放課後に児童の面倒を見ることができなかった。そこで、放課後のクラブ活動や部活動、音楽教室が普及していた。  最も人気のあった祝日の一つは、労働者の祭典「メーデー」だった。花やポスターを掲げた行進は、モスクワだけでなく、各地で行われた。   こちらもメーデーの行進だ。スローガンは、「私たちは平和を望む!」  パレードに参加する黒海艦隊の水兵たち。  1年前、全ソ農業博覧会(後にVDNKh〈国民経済達成博覧会〉となる)のパビリオンが、スターリン様式で再建・改築された。外国からの賓客はみな、ここに連れて来られた。ソ連国民もここを散策するのを好んだ。写真は中央パビリオン。  例えば、カザフ・ソビエト社会主義共和国のパビリオンは、こんな外観だ。  モスクワ地下鉄は、開通から20年が経ち、急速に発展してきた。戦時中も、新駅が開業した。記念展では、エスカレーターの小型模型が展示された。   モスクワの地下鉄駅「イズマイロフスカヤ」(現在の「パルチザンスカヤ」)のホールには、有名なパルチザンたちの彫刻が装飾として設置された。